の疲勞のあまりわたしは作業臺に突伏してうとうととしてしまつたのであつた――と、突然、大分呂律の回らぬ怪し氣な大聲で
「おーい、たゞ今あ……」
と怒鳴ると同時に門口の格子が荒々しく開いて、時を移さず、あの別れの歌を叫びながら、見も知らぬ一人の水兵がわたしの部屋へ轉げ込んだのであつた。彼の眼は大醉に据つて、碌々わたしの姿も見ず
「おゝ、大塚、貴樣感心に何時でも机に向つて勉強しとるな。邪魔したら濟まんが、俺は今晩こそは大分醉つてしまつたぞ。ウーツ、失敬、直ぐに寢るから御免よ。」
と云ひも終らず、さすがに服だけは脱ぐと、いきなり卓子の下に伸べてあるわたしの寢床に潜り込み、やをら頭からすつぽりと毛布を引き被つたかと見ると、忽ちごうツといふ大鼾だつた。わたしの被着《かひまき》は、これも錨の印のあざやかな純白の海軍毛布だつた。
云ふまでもなく、門口の具合と云ひ、梯子段の在所と云ひ、並んだ家のかたちは寸分違はぬので、更にまた坊主頭のわたしが作業服を着てゐる有樣から、水兵は有無なく自分の合宿と間違へたのである。――わたしは寄んどころなく、その隣にもう一つ同じようなベツドをつくつて、靜かに燈りを消した。
「おや、大塚、貴樣も寢たか。」
やがて、水兵は闇の中でわたしに呼びかけるのであつた。
「うむ、寢た。貴樣、大層醉つたな。水は枕元にあるぞ。」
とわたしは云つたが、もう彼はまた非常な鼾であつた。わたしは妙に胸がざわめいて眠れなくなつたので、莨をとつて、そつとライターを點けた時、不圖仁王のやうな腕だけがぬツと傍らに突き出てゐるのに、ハツと思ふと、その拳にはしつかりと一本の銀笛が握られてゐた。そして鼾は毛布の奧底だつた。
明方わたしが目を醒まして隣りを注意すると、いつの間にか寢床は綺麗に整理されて、その上に「失禮、失禮」と誌した一枚の紙片が載せてあつた。その翌晩からは、ぴつたりと銀笛の音は消えて、ひそかなるわたしの樂しみもなく、わたしは專念作業に沒頭するばかりだつた。
旗艦「山城」が、一等巡洋艦「鳥海」「高雄」「摩耶」「愛宕」航空母艦「赤城」以下、第十驅逐隊「狹霧」「漣」「曉」を隨へ、仄かなる春の霞みが岬の彼方に煙り初めたとは云へ、未だ如月の夢深い曙の波を蹴立てゝ、威風堂々、○○方面を指して遠洋航海の碇を卷いたのは、あの翌朝のことであつた。――何もわたくしは、あの水兵が聯合艦隊の所屬であつたかと想像する由もなかつたが、それ以來杳として銀笛の音は聞えなかつた。
艦隊は何處の國の港で春を迎へ何處の大洋の沖合で春をおくり――と市民達の噂も長く、やがて軍港の山々は緑に映え、卯の花の蕾がほころびて散り、海も山もえる[#「山もえる」はママ]炎夏を迎えた。季節をたとへて金樽緑酒とも云へるものならば、おそらく街々の角なみに「艦隊入港」の歡迎旗を飜す眞夏の微風に、天地も陶然として凱歌を擧げるひとときに止めを刺すと申すべきであらう。――軍樂隊の響きが遠方の空から卷き寄せると、街は一勢に鬨の聲を擧げて花やかな津浪と化した。街が、そのまゝ天地を象つて、巨大なる一體の美人であつた。緑の山々は、髻に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]む玉鴛鴦と云ふべく、碧洋に浮ぶ滿艦飾の鏤《ちりば》みは、裙に綴る金※[#「虫+夾」、第3水準1−91−54]蝶と見紛ふて理の當然であつたらう。
わたしは、ふところ一杯に五色のテープを充滿して高樓の屋上から、聲を限りに呼びながら双つの腕を筬のやうになげうつた。
わたしの窓の露路までもが、夜更まで賑つてゐた。わたしは歡迎にしびれた五體を籐椅子に横たへながら、どこからか聞えるシヤムパンの音を聞いてゐた。
わたしの本棚の「比叡」「那智」も滿艦飾を裝ひ、見物人が現れた。――そして最早街のどよめきも靜まつたのでわたしもその飾りを降し、恰度水の季節も盛りとなつた折から、エンヂンの備へ付け工作にとりかゝつて夜を更してゐると、不圖窓の下に笛の音を聞いた。いつの間にか銀笛のことなど忘れてゐたがそれは今度は銀笛ではなくてその度毎に曲り角の生垣でゞも摘みとるらしい青葉の笛の音であつたが、どうもいつかの笛の節と同樣の歌を吹奏してゐるので――思はず窓をあけて「やあ」と言葉をかけてしまつた。すると、青葉の笛の吹奏者は脚を止めて、ちよつとわたしと視線を合せたが、不思議もなく取り濟して行き過ぎた。全くわたしは人違ひをしたらしいのだが、自分としてはあの銀笛の人の顏を知りもしないので術もないわけなのである。青葉の笛はこの頃一人や二人ではなく、露路にさしかゝると水兵達は皆巧みに吹き鳴らして通り過ぎた。あの拙い銀笛よりも何れも聽き好かつたが、何故かわたしはあの顏も知らない水兵の笛が待遠しかつた。風流氣《センチメンタル》といふわけ
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