合艦隊の所屬であつたかと想像する由もなかつたが、それ以來杳として銀笛の音は聞えなかつた。
 艦隊は何處の國の港で春を迎へ何處の大洋の沖合で春をおくり――と市民達の噂も長く、やがて軍港の山々は緑に映え、卯の花の蕾がほころびて散り、海も山もえる[#「山もえる」はママ]炎夏を迎えた。季節をたとへて金樽緑酒とも云へるものならば、おそらく街々の角なみに「艦隊入港」の歡迎旗を飜す眞夏の微風に、天地も陶然として凱歌を擧げるひとときに止めを刺すと申すべきであらう。――軍樂隊の響きが遠方の空から卷き寄せると、街は一勢に鬨の聲を擧げて花やかな津浪と化した。街が、そのまゝ天地を象つて、巨大なる一體の美人であつた。緑の山々は、髻に※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]む玉鴛鴦と云ふべく、碧洋に浮ぶ滿艦飾の鏤《ちりば》みは、裙に綴る金※[#「虫+夾」、第3水準1−91−54]蝶と見紛ふて理の當然であつたらう。
 わたしは、ふところ一杯に五色のテープを充滿して高樓の屋上から、聲を限りに呼びながら双つの腕を筬のやうになげうつた。
 わたしの窓の露路までもが、夜更まで賑つてゐた。わたしは歡迎にしびれた五體を籐椅子に横たへながら、どこからか聞えるシヤムパンの音を聞いてゐた。
 わたしの本棚の「比叡」「那智」も滿艦飾を裝ひ、見物人が現れた。――そして最早街のどよめきも靜まつたのでわたしもその飾りを降し、恰度水の季節も盛りとなつた折から、エンヂンの備へ付け工作にとりかゝつて夜を更してゐると、不圖窓の下に笛の音を聞いた。いつの間にか銀笛のことなど忘れてゐたがそれは今度は銀笛ではなくてその度毎に曲り角の生垣でゞも摘みとるらしい青葉の笛の音であつたが、どうもいつかの笛の節と同樣の歌を吹奏してゐるので――思はず窓をあけて「やあ」と言葉をかけてしまつた。すると、青葉の笛の吹奏者は脚を止めて、ちよつとわたしと視線を合せたが、不思議もなく取り濟して行き過ぎた。全くわたしは人違ひをしたらしいのだが、自分としてはあの銀笛の人の顏を知りもしないので術もないわけなのである。青葉の笛はこの頃一人や二人ではなく、露路にさしかゝると水兵達は皆巧みに吹き鳴らして通り過ぎた。あの拙い銀笛よりも何れも聽き好かつたが、何故かわたしはあの顏も知らない水兵の笛が待遠しかつた。風流氣《センチメンタル》といふわけ
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