どには何の未練も後悔もなく、時に、遺書なりと認める必要に出會ふ折もあれば、勇敢なる杉野兵曹長のそれと同樣に簡單明瞭なる一札で充分であると思はれるばかりであつた。
それはさうと、このわたしの窓の下はそんな繁華な大通りの側面でありながら、急に暗くなつて、夜更けまで主に脚どり嚴めしい兵隊靴の音が絶えなかつたが、その脚どりの中に毎晩爽やかな横笛《ピツコロ》の練習をしながら戻つて來る者があり、餘程の熱心を籠めて吹奏するらしいその節廻しがいつもわたしの夢をほろ/\と誘ふおもしろさなので、一體何んな人なのか知らと憧れて、そつと見降ろすのであつたが、一向姿は定かではなかつた。深い泉水の底に眺める鯉のやうに淡く、吹奏者の姿は忽ち闇の彼方に吸はれて行つた。
最初にわたしがその吹奏の歌を聞きはじめたのは、未だあたりは冬の霧が深く、海の上から放たれる探照燈の翼が崖の側面にあたると、凍てついた氷山に對する稻妻のやうに見えた頃であつた。
ピツコロと云つても專門的なものではなくて、それは何うも昔わたし達が幼い折に弄んだ銀笛の類ひであるらしい響きであつた。御存知ない方は合奏用のピツコロの音を御想像下されば充分である。兎も角あの笛の音が、夜陰の露路を單獨で、ピツ、ピツ、ピツ! と鳴つて、軍歌を節付け、唱歌を習つて來る音を耳にして、凡そその吹奏者を憎む人は皆無であらう。
二三軒先の合宿から折々聞えるところの、前記の「海兵わかれの歌」ばかりを、銀笛の吹奏者は、氷つた月のころから習ひはぢめてゐたが、彼はどちらかと云へば武骨過ぎる指先かと見えて、その一節さへもが容易になだらかには運ばなかつた。支へては出直し、間違へては歩調を直して、飽かずに續けてゐたのであるが、まつたくそれは柳に飛びつく蛙のやうな熱心ぶりで、窓の中のわたしの方がいつの間にか速かに聞き覺えて、そつと細い口笛で合奏しようとしても、一向辻妻さへ合はなかつた。それでも漸く岬の彼方に春霞みが立つて、間もなく聯合艦隊が出動すると噂がたつ頃には、あはれな銀笛の音も辛うじてわたしの口笛に合ふ程度になつた。そしてわたしはその頃今本棚の上に飾つてある軍艦「那智」の進水を目前に控へて營々と夜毎の作業に沒頭してゐたが、例のライターで一喫しながら、もうあの笛の音が聞える時分だがと腕時計を見たりしてゐたものゝ、その晩に限つて何時迄待つても現れず、つい連日
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