は無かつたのであるが、秘かに情人の姿を眺めることを好んだ。
 橋を渡つて、向方の稲むらの間に達しても動いてゆく久良のかたちは、どこまでもはつきりとしてゐた。久良は、戯れに稲むらの間を事更にジクザクと縫つて、このまま別れてゆくのが名残り惜しいといふ風に、いつまでも振り返つてこくりこくりと首を動かせたり、慌てて稲むらの蔭に隠れたりした。それは扉の内の恋人への会釈に相違なかつたから、俺は柿の木の幹にもたれてぼんやりと見送るだけの役目を果してゐた。
「済まないね。」
 やはり節穴から覗いてゐた太吉が、太い声をかけた。

     三

 久良がつくつて来た二つの草鞋の一足は大き過ぎて芭蕉のやうであり、一足は指が悉く喰み出して役に立たなかつた。久良はそれらの製作に疲れて、囲炉裡のふちに伸びた。太吉は、色眼鏡の代りに、片方の眼だけを蓋する四角の布に糸をつけて耳にかけてゐた。
 久良は、太吉の自然の一つの眼を惚れ惚れと見あげて、
「これは優しいけれど……」
 と云つた。だが、その目覆ひの直ぐ下の有様を想ふと、気味悪くて近づけぬと神経性の痙攣を全身に波立せた。太吉は、優しい眼の方の横顔を久良の側にして、草鞋の手工に急いでゐた。
 暗いラムプであつた。風模様だつた。ラムプの灯が、扉の隙間からの風で稍々ともすると消えかかつた。
「荒れるのか知ら?」
 俺は、木々に鳴る風に耳を傾けた。太吉は外の模様をあらためるために立ちあがつて、
「明神ヶ岳の空が明るいから、荒れる気づかひはなからう。これで雨を飛ばしてしまはうといふんだから、あしたは晴れだよ。」
 と、いつまでも扉の外へ顔を曝してゐた。
「雨だつて俺は出かけるよ。この靴に草鞋をくつつけて……」
 俺は、夏のうちにヤグラ岳を越えて、丹沢山へ踏み入る目的でそろへた山登りの道具を持ち出して囲炉裡のふちに並べてゐた。登山袋も靴も杖も手袋も新しかつた。計画を立てて支度だけは整へたものの、急に水車の支障が起つて実行し損つたのである。
 久良が、あしたの俺の弁当をつくるために竃の前で吹竹を構へてゐた時、
「お久良お久良、手前はまた斯んな目ツカチのところに来てやがんのか!」
 と赤鬼のやうに酔つ払つた久良の老父が呶鳴り込んで来た。
「余計な世話だよ、目玉さへ這入れば太吉は立派な男なのよ。」
 久良は養父と犬猿だつた。
「ほざくな。さあ、帰れ……」
「お
前へ 次へ
全10ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング