である。始めは作家志望ではなかつたのであるが、そんな月日を送つてゐるうちに、いつの頃からか、彼は自称「自己派」の学生になつてゐたのである。
だから彼は、あのやうに尤もらしい顔付きをして「若しもタキノが、己れの日録なるものを……」などゝいふことを、今更のやうに呟いで、顔を顰めたのである。生活は、あの[#「あの」に傍点]通りである、思想も、あの[#「あの」に傍点]通りである。だが彼は、未だ青年らしい自惚れを持つてゐて、迷夢とも知らず、「生活が――」「生活が――」などゝいふ愚痴を滾しては、己れの非も忘れて、迷夢をたどつてゐたのである。他人が見たならば、何といふ怖ろしい自惚れであることよ、「自己派」学生タキノ某の迷夢は? ――彼は、既に父を失ひ、長男であるにも関はらず寒村の家は母に与へ、今は四才の子の父で、そして三十歳である。古き諺の、空しく犬馬の年を重ねて――も、或ひはまた古への歌、「もゝちどり囀る春はものごとに、あらたまれども我はふりゆく」も、その儘彼の為には、あらたなのであつた。
四五日前、彼は小田原の旧友Kから、来月になつたら野球見物旁々上京する、その節久し振りで君の寓居を訪れたい
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