、まだ寒かつた。タキノは、こゝに来て以来、一日に一度宛入浴に出かける以外、土を踏むことはなかつた。昼、十二時過ぎに眼を醒し、ぽかんとして、またうとうとゝ相当快く眠り、しばらくたつて寝床から這ひ出し、湯に出かけ、さつぱりして帰つて来ると、灯りが点いてゐて、夕餉の膳に向ふ、より他に何もなかつた。想ふこともなく、事件もなく、日々は左様に、奏楽に適さない玩具の笛ですら三つ位ひの音色はもつてゐる、土細工の鳩笛の音は単調ではあるが一脈の哀音をもつてゐる、が彼の胸にも頭にも喉にも何の響きはなかつた。これで彼は、さまで倦怠を感じてゐるわけでもなく、別段深刻な憂鬱を宿してゐるわけでもなく、といふて勿論愉快でもなく、云はゞ、朝何時に起き出て、夕べは十分おきに到着する電車でも毎夕必ず同じ電車で帰り、夕餉を済すと間もなく高鼾きで眠つてしまふ……あまり位ゐの好くない呑気な道具のやうな勤人と大差はないのである。
 一度、弟の代筆で寒村の母から、近火を見舞ふ手紙を貰つた。まだ彼のところには新聞が配達されてゐなかつたので、その手紙で初めて市外・日暮里に大火があつたことを知つた。彼は、そこに友達があるので、細君に命じて
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