そこでは一人の友達もなく、稀に往来などで旧同級文科生などに出遇ふと、神経的な虫唾が走つたり、向方も向方で、あの稀代な劣等生は未だ生きてゐたのかといふ顔をするし、――結局この町にも長くゐたならば、丁度あの文科同級生と自分との関係になるに違ひない――となど彼は思ひもした。嫌ひだとか何とか云ひながら、それに引込まれる烏耶無耶性を彼は多分に所持してゐた。

(……若しもタキノが、己れの日録なるものをつくらなければならなかつたならば、彼はその第一日以後をどんな風に綴らなければならないであらうか? ……)
 未だ外の景色が明るかつた時分から、ひとりでチビチビと酒盃を傾けてゐたタキノは、もう波に浮んでゐる程の心地になつて、ふつと自分で自分のことをそんな風に呼び棄てにした。――そして、何を云つてゐるのか? と、セヽラ笑つた、ひとりで――。
(ねばならなければ……ならなければならない……)
 そんな馬鹿気た語呂だけが、安ツぽい玩具の滑りの悪い車みたいに舌の上をころがつた。
(……大変云ひ憎い、何とかといふ文句を、三辺も四辺も息も切らずに唱へる……子供の時分にそんな喋舌り競走をしたことがあるね! えゝと? 何んな文句だつたかな? すつかり忘れてしまつたな! だが俺は、たしかその遊びでは何時でも失敗者だつたな! さつぱり舌が回らなかつたよ……それにしても一つ位ゐあの唱へ文句を覚えてゐさうなものだが、チヨッ! 癪だな! 今一寸試して見たいんだがな? あゝいふ業は、子供と大人と何方が優れてゐるものかしら! それもやつぱり天成の一つかな? 子供の時分出来なかつた遊びは……勿論ぢやないか、いつそ反つて無器用になつてゐる位ゐのものなんだらう。)
「チヨッ」と、彼は舌を鳴した。それ位ゐのことで彼は、厭な気がしたのだ。
 同じ日ばかり続くのである、即ち昼、十二時過ぎに眼を醒し、ぽかんとして、またうとうとゝ眠り、しばらくたつて寝床から逼ひ出し、入浴に出かけ、帰つて来ると灯りが点いてゐて、夕餉の膳に向ふのだ――忽ち酒に酔つてしまふ、如何して寝床に入つたか覚えはないのだ、たゞ翌日、即ち昼、十二時過ぎにぴかりと眼を開くと、たしかに其処に、英文和訳の直訳体の説明句の通りに、彼は其処に自分の存在を発見するのだ。――云ふまでもなく彼は、酔つてどんなことを考へ、どんなことを喋舌り、どんな動作を演じたか、悉く忘れてゐる
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