来ないし、どうしたら好いか迷つてゐる――といふ意味の手紙を貰つて、××店の主人に彼は、酷い憤りを持つたこともある。
彼は、いつもと違つて、妙に慌たゞしいやうな素振りで切りに盃を傾けながら、そつと口のうちで「若しもタキノが」とか「……ねばなるまい。」とか「わざとらしいことは出来ないし。」などゝ呟いでゐたが、細君が隣室に去ると、それらの独言が尚も繰り反されて、微かに細君の耳にも解る程になつてゐた。
――細君は、自分が神経衰弱なのだと思つて見るのだが、どうも夫の様子が薄気味悪くて適はない、途方もない妄想に駆られて、凝つと子供を抱いてゐた。と、夫の独言は益々はつきり響くのだ。――(お母さん、これから仲善く一処に暮しませうね、)――(たしかに私はあなたのオベジエント、ソンです、今迄のことは許して下さい。)――(頭をあげて山月を望み。)――(足もとをしつかり。)――(だが帰つて何をする?)……。
と、いやに静かになつたので、細君は、やつと眠つたか、まアよかつた、もう少しそつとして置かう、と思つてゐると、
「ヤツ!」と夫が、何か力をこめたやうな気はひを感じたので、思はず彼女は振り反つて見た。
すると彼は、端然と背を延して坐り、凝ツと物々しく前を睨み、ヤツと云つて、眼を突いたり、鼻をつまんで上向いたり、耳を釣つて、痛さうに顔を顰めて延び上つたり、口唇をつねつたり、――また、ヤツと云つて胸を叩いたりしてゐるのであつた、夢中で――。
これを見ると細君は、突然ゾツとして、子供の夜着の中に顔を埋めた。
(やつぱり自分の気の迷ひではなかつたのだ、あの人は到々気が違つてしまつたのだ。)
細君は、一途に斯う思ふと、全身が震へ、と同時に激しく涙が滾れ出た。[#地から1字上げ](十四年四月)
底本:「牧野信一全集第二巻」筑摩書房
2002(平成14)年3月24日初版第1刷
底本の親本:「新潮 第四十二巻第五号」新潮社
1925(大正14)年5月1日発行
初出:「新潮 第四十二巻第五号」新潮社
1925(大正14)年5月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年5月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http:/
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