来て、落つきを感じた。来る時は、郊外はもつと広々としてゐるかなどゝも思つたのだが、蜜蜂の巣のやうな家がいくつもならんでゐる、その一つがこの家で何の気易さもなかつた。こんな家に入る位ゐなら、何もこんな処に来ることもなかつた、と彼女は思つた。夫の故郷の母が、自家の女中を寄して呉れたのだが、たつた三間しかない家で、女中は笑つて帰るより他はなかつた。彼女は、軽蔑をうけた。定めし夫が、いつもの通り家賃とか敷金とかをごまかす為に、故郷の母にあられもない法螺を吹いたに決つてゐる、いつまで不良学生のつもりでゐるんだらう、実家の危期も忘れて――彼女は、斯う思ふと怖ろしくなつた。尚厭なことは、自分まで同類と思はれることだ、何一つ買物をするでもなく、何処に一処に出歩くでもなく、女中のやうに働き、……などゝ続けた時彼女は、思はず、
「あの馬鹿の……」と夫を称んで、反つて情けなくなつた。……「何といふケチな男だらう……」
 静かな夜だつた。彼女は、四つになつた子供の寝顔を眺めると、涙ぐましくなつた。子供は、父に似ず強健な体格で(これを思ふ時だけ彼女は光りを感じた。)――フイゴのやうに順調な寝息をたてゝ眠つてゐた。……だが彼女は、S・タキノの母も、十年余の夫の留居を守つて、常にさういふことを思つたことを知らない。彼女は、此頃変に夫が家に落つかず(どういふわけか彼女は嫉妬を感じない、たゞ変だつた。)、突拍子もない寝言を叫んだり、聞きとれぬ位ゐな独り言を隣室で呟いだりすることを、ふつと思つて、神経衰弱なのか知ら! といふ気がした。と同時に、黒い翼で頭を打たれて――奇妙に不吉な幻を見てしまつた。――いや、これは自分の神経が変になつてゐるんだ、と彼女は慌てゝ、力なくセセラ笑つて見た……。
 翌晩彼は、遅く帰つて来た。相当酔つてゐるらしかつたが、陰鬱な顔をして、大声も出さず、そして盃を取りあげた。
「阿母と一処に暮したい。」
 彼は、そんなことを云つた。誇張した動作は見る者に不愉快を与へる――そんなことを熱海日誌に書いたことなどを彼は思ひ出したりした。
「田舎へ帰つて、ほんとうに勉強しようかしら! 第一此方へ居ると阿母のことを考へなければ、ならないといふことが……ねばならない、ならなければならない、must be といふことは、その種類の如何なるを問はず、負担である。負担は厭だ、虫の好い寝言だと云はれて
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