翌日出かけるのも忘れて、そんな手紙を思はず書いたKの母の心は解る。)
彼は、此間そんなものを取り出して見たが、わけもなく破棄した。これでは松岡先生に、眼を突かれ、鼻をとられた当時から一歩も出てゐない――そんな気がしたらしかつた。だが現在は、この郊外の日々は、如何程先生から酷く、耳を釣られ、口唇を引かれ、胸を叩かれても「前日に同じ」より他に無いのである。
また彼は、血統を思ふこともあつた。父は、一生何の定職もなく、その癖何の落着きもなく慌忙のうちに人生の幕を閉ぢた人である。父は、常々「俺は了見が世界的なんだ、俺は、云はゞコスモポリタンだ。」などといふことを、酒などに酔つて高言する程の、一種の臆病者で、その言説が明日まで残ることはなかつた。一年程前に死んだのであるが、彼にとつてはもう古い夢のやうで、強ひて思へば、何となく笑ひたいやうな気持(それは丁度、その父がまた先代を笑つてゐたやうに)になる位ひのもので、子に伝ふべき遺業も言説も、また子が、どんな意味に於ても、子として他人に向つて語り得る材もなかつた。だから彼は、祖先伝来のカマボコ製造業を享けついで、今は専念俎を打つてゐられるKなどが羨しかつた。今彼が、享けついだ一つと云へば、こんなことが一つ残つてゐる。
彼の父は、たつた一辺何の迷ひであつたか、村会だつたか、県会だつたかの議員候補にたつて(それは、おそらく普段の言説とうらはらの業である)夢中になり、多くの運動員を集めた、その夢中さ加減が余り夥しくて、(如何にコスモポリタンでなきことよ! また常に云ふソシヤリストでなきことよ!)この運動員が夫々投票したゞけでも「もう占めたものだ、万歳だ。」――「いざとなると俺には味方が多いんだ、何しろ俺はデモクラツトを守つて来たんだからな、職人の友達だけでも大したものだ、思はぬところで信用されてゐるからね。」と、非常に楽観して、投票日には得々として「青い顔をしてゐる他の連中の意久地のねえこと!」――「あまり突飛な最高点で、帰りに闇打ちにでも遇はなければ好いが。」と、まつたく不安な顔をしたり、で、いざ開票して見ると、H・タキノには一票しか入つてゐなかつた。――夜、母と、当時保養に来てゐた母方の彼の祖母と彼(文科大学生であつたS・タキノ)とが、火鉢を囲んでHの帰宅を待つてゐた。この家の真向ひに大きな黒い門のある家があつた。と、突然静寂
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