つて訊いて見た。
「中学の時分なんだ、我々は仮装隊を組織して……」
「あゝ、もう沢山/\。」
 何といふつまらない男だらう――彼女は、沁々とさう思つた。
「おゝ魂よ、Make merry and Carouse, Dear soul, for all is well! ……」(テニソン)
 もう駄目なのか! と彼女は、思つた。目方が軽いから運般も出来るんだが、これでも正体なくなると相当重い、毎晩あれが一仕事だ! と、彼女は思つた。それにしても稍ともすれば怪し気な英語などを叫ぶが、みつともない話だ、あした注意してやらう――などゝ思ひながら、もう斯うなつては逆へないので、「随分偉いことを御存じね、説明して下さいな。」と云つてやつた。が、幸ひだつた、彼は、うな垂れて粗野な吐息を衝いてゐるばかりだつた。(そして、タキノは……)と、彼は思つたのである。
 当時彼の国の文壇には、「自己派」と称する一派があつた。それは作者自身が、自己の実生活を材にして、これを芸術化するといふところから左様な名称が出たのである。何故ならば、これはもう一つの「経験派」と違つて、同じく生活を材とするのではあるが、或る者は犀利な鑿を振ひ、また或る者は奔放な空想を加味し、或ひは鋭い理智の刀を執り、夫々「生活」を珠と変へたのである。未だこの他に「円破党」と称せらるゝ一派もあつた。これは、英吉利の昔、ジョナサンスヰフトが用ひた言葉を、或る批評家が引用したもので、人生を卵に例へて、これを割る場合には卵の円味のある方から割るべし、されば傷を負ふことなし、吾人が人生の行路は斯くや執らん、といふやうな態度の一派を総称して、「自己派」や「経験派」と同じく便宜上与へた名称である。また同じく「尖破党」と称ふ一派もあつた。これは大体に於て「円破党」の反意派なのである。
 斯くの如く当時の文壇は、国創始以来の文運隆盛時代に相違なかつたのである。多くの青年は、東都の華やかな文壇に憧れて、遥々と蝟集した。――さて、タキノは、長い間故郷の実家で邪魔物扱ひにされて暮したり、そのうち、親の命令でもなく、寧ろ反対を犯して、といふて青年らしい恋をしたのでもなく、烏耶無耶に五年も前に現在の細君と結婚した、すると実家には居憎くなつて、一度は追はれるやうに伊豆熱海に逃れたり、そして今では東京で転々と居を移し、このやうな単純な日を無意に過してゐるの
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