病状
牧野信一

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)御面師《おめんし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)恰度|離室《はなれ》が

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)仕事のやま[#「やま」に傍点]が

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ふわ/\としてゐる
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 凍てついた寒い夜がつゞいてゐた。
 私は、十銭メートルの瓦斯ストーヴに銀貨を投げ込みながら、空の白むまで机の前に坐りつゞけたが、一行の言葉も浮ばぬ夜ばかりだつた。
「いつでも関はぬから起してお呉れ。」
 細君は明方の私の食事については、パンや果物の用意をとゝのへて、机の傍らにすやすやと眠つてゐるのだが、稍ともすると私は気の弱い食客の心地に襲はれた。
 カーテンが水底のやうに白んで来ると、私は頼りないあきらめの吐息を衝いて五体がたゞ煙りのやうにふわ/\としてゐるのを感ずるだけだつた。
 私は、どてらの上にそのまゝ外套を羽おり、襟巻きに頤を埋めて、そつと部屋を忍び出た。私は食堂を探さうと考へながら、坂を降りて行つたが、極く稀に朝霧をきつてゆく車の響きがするだけで、街は未だ眠りの奈落であつた。私は雪の中に道を失ふた旅人のやうに、あてどもなくふら/\と歩いて、眠気の襲来を待つのであつたが、不図、辛うじて一台の車を拾ふと、品川まで――とつたへた。
 そこの廓内に夜通しの営業に栄えてゐる一軒の食ひものやのあることに気づいた。
 私は怕る/\盃に口をつけてゐた。――おもふにつけ、それは苦く味はひのない液体で、一杯の盃を傾ける毎に思はず顔を顰めては、凝つと首筋を伸して宙を睨めてゐるだけだつた。
 寺小屋の机のやうな食卓が二列にならんだ広い座敷で、私のと一つ置いたところでは、ひとりの眼の据つた頬のこけた中年の、商人とも他所行の職人ともつかぬ男が、何かの鍋を前にしてやはりひとりでぼんやりと湯気を視詰めてゐた。既に、その食卓の上には四五本もの徳利がならび、間もなくもう一本を注文したのであるが、女中が酌をすゝめようとすると、
「関はないで――」
 と彼はことわつてゐた。そして、無造作気な手酌で盃を傾けては、何かうつうつと深い思案に耽つてゐる様子は、余程不気嫌な豪酒家と察せられた。――向ふ側には真つ赤になつた会社員風の二人
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