一切御持参なさらぬがよろしいでせう。私が只今用意いたして居ります少しばかりの瓦斯が出来次第に私達は飄々とこの地上を離れます。そして段々体が軽くなると益々迅速に飛行することが出来ます。さあ、新旅行の首途を祝しませう。」
 私は、これらの科白の受け渡しがあまりに流暢に、恰も吾々が日常の会話を取り交すごとくに自由に運ばれたのに有頂天になり、座席に飛び込むと、今度は全くの自分の言葉であるにも拘はらず、思はず今迄通りの、気取り込んだ重々しい声色で、
「俺に懸念することなく、案内役の勝手気儘に先づ最も愉快であらう小世界へ運んで呉れ。だが、この群集の列からは脱れて、出来るだけ速かに、あの花火の空とは反対の方角を目指して一散に飛行して呉れ――青い焔に背を向けよう。それツ、急げ急げ!」
 と合図した。
 人通りの全く杜絶えてゐるかのやうな公園の森の中を、タキシーは砂煙りを挙げて疾走してゐた。
 不図助手が振り返つて(何といふ鋭い眼光を持つた青年だらう……と私は、その時はじめて彼の容貌に気づいた。どうやらさつきの角楯組の兵士の横顔にも似てゐる、あの鋭い眼光はフエスに憧るる者の眼だ――と私は思つた。)
「金貨は何枚位ゐお持ちですか?」
 と訊ねた、今日私は、アゼンスの煽動政治に反旗を翻し、そしてソクラテス亜流の唯心哲学を嘲笑したアリストフアーネスの一作物――「乱雲」他一篇――の翻訳を三ヶ月ばかりで脱稿したところで、一袋の金貨を所持してゐたから、そのままそれを彼の眼の先に差し示すと彼は腕を伸して握手を求め、そして歌つた。
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「木造りの食卓また酒を出し得べし
炯眼を放ちて自然を見よ
ここに奇蹟あり疑ふ勿れ」
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 で、私も歌つた。
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「偽りの姿と言葉
想ひを変へ国を変へて
ここに現れよ、またかしこにも」
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 彼もまた更に折り返して歌つた。
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「………………
迷妄よ、彼等の眼より覆面を去れ。」
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私は、兎でもぶらさげてゐるやうに胸の先につまみあげてゐた金貨の袋が、床の上に滑り落ちたのも気づかず、やつぱり袋をつまみあげてゐるまゝの胸のかたちをとつたまま、自分の歌ひ出さうとする歌に酔うた。さつき円楯組の軽騎兵が歩調に合はせて歌つて来た軍歌に、私は自分の作に依る歌詞を調子づけて得意を覚えたところだつたので、また私はあの軍歌の節で歌つた。
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………………
転がせ転がせこの樽を
夜告鳥にさそはれて
樽は酒樽 鯨飲み
飲んで歌つて目をあけば
手品使ひの檻の中
………………
[#ここで字下げ終わり]
「おい運転手俺は綺麗な女の顔が見たくなつた。そこで婦人に対する礼儀を重んじて、この※[#「髟/(冂<はみ出た横棒二本)」、第4水準2−93−20]面を何処ぞの美容院で、さつぱりと剃り落して来たいものだな。」
「春の微風《そよかぜ》が頬を撫でるほどの感触も覚えさせずに、たつた五分間でさつぱりお顔をこしらへる手ツ取り早い理髪師を存じて居ます、私は――そこで、ロンバルデイの椿油で御髪《おぐし》を綺麗に分け込んで、オシリスの香りを含んだ香水を吹きかけられて、エヘンと一つ咳払ひをしながら、その店を出て来れば、屋根裏住ひの鼻曲りの哲学者も忽ち変じてドン・フアンの仲間入りが叶ふといふ名看板の理髪師を存じて居ります。」
「そいつは何うも少々話が甘過ぎるね。まさかバーデンブルグの美容師ぢやあるまいね。」
 ………………
 註――一五〇〇年代の話であるから吾々のヨハン・ゲイテが戯曲ファウストの稿を起す凡そ二百年も前のことである。テレンブルグの医学博士ウヰールが「ファウストとの交遊」なる著に於て次のやうな挿話を伝へてゐる――ファウスト、魔術を乱用したる廉に依りてバーデンブルグの獄屋に投ぜられし時、蓬髪垢面の一教誨師に会ひたり。彼がファウストに述懐する処に依ると、余は剃刀を用ひることが実に不得意で本意なくかかる面貌をしてゐるのだが、御身に何か好き知識はなきか――と。ファウスト、膝を打ちて直ちに、剃刀を用ひずして※[#「髟/(冂<はみ出た横棒二本)」、第4水準2−93−20]を剃る方法を伝授したりき。教誨師は深く感謝して、ファウストに一壜の葡萄酒を贈り、加へてその罪を赦し獄屋より放ちたり。されど日を経るに従ひ牧師の面皮は次第に脱落し、終ひには肉までも失はれ、世にも浅はかなる面貌となりたり。追手を八方に放ちて怖るべきファウストを追跡したれど終に捕ふることを得ず。間もなく諸々の国々に、面皮脱落病なる不思議なる疫病が流行し、巷の風に骸骨の頬を曝す市民が頻々として続出するに至れり。この疫病を伝染せしむる者は、奇体なる装ひをなし町から町へ渡り歩きつつある怪し気な理髪師の仕業なり――といふことが判明したれども、理髪師の変装とその神出鬼没の出現は人力をもつては如何に為すべき術も見あたらざりき。彼は巨大なる一葉の団扇に乗りて空中を飛行し、山を越え、海を越え、更に時代を飛び越えて、永遠にこの疫病を流行させん――と豪語せり。されど、この「剃刀を用ひずして※[#「髟/(冂<はみ出た横棒二本)」、第4水準2−93−20]を剃る術」とのみ云へば魔的に聞ゆれど、余の研究するところに依つて見ると、これは単に、液状になしたる砒石の素を塗りつけるのみの至つて原始的な手段なりき。その他に於ける彼の様々なる魔術も科学上の説明を加ゆるなれば、凡そこの類ひのカラクリには相違なからんも、大方の諸賢は先づ世の化粧術師に対しては慎重なる注意を施すべきが肝要なり。彼の魔術師の子孫、何れの町に、如何なる姿に身を窶して潜み居るやもはかり知れざればなり。

     二

「一体何を見てゐらつしやるの? ――あたしの眼だけを凝つと見て……他のことなんて考へてゐては駄目ぢやありませんか……」
 私に腕をとられて颯々と踊りまはつてゐる綺麗なダンサーが、踊りながら私の耳に囁いた。
 私は、口が利けなかつたので、片隅に誘ひ出して、窓に凭りかかつた。
「あたし、足でも踏まれやしないかしらと思つて、とてもひやひやしてゐたわよ。」
「失敬した。――どうも有りがたう。」
「何うなすつたの? 何をぼんやりしてゐらつしやるの、変な眼つきばかりしてゐらつしやるぢやありませんか?」
「今朝、手紙を書かうとして、ペンを探すと……」
「あたしに手紙を書かうとお思ひになつたの? え、――それで?」
「君ぢやない、田舎の友達なんだ。」
「…………」
「何てまあ景色の好い面白さうな田舎だらう、是非行きたい――と何時も君が云つてゐる田舎……僕が其処の生活を歌つた詩を読んだ君の憧れになつてゐる――」
「伴れてつて下さる。嬉しい! 何時?」
「あさつて――だよ。そんな靴ばかりを履き慣れてゐる君には、とてもあの山径はのぼれないのだ。だから、ロシナンテと称する僕等の名馬を――だね、停車場へ曳いて来て貰ふことを頼む手紙なんだ。」
「でも、あたし馬になんて乗れないわ、怖くつて――」
「何うしても馬車をつけるわけには行かないんだ、細い細い山径を三哩も上らなければならないから。」
「……さうなると、また愉快ね。ぢや思ひきつて乗るわ。」
「慣れるまでは誰かが轡をとつて呉れるから大丈夫さ。君の轡のとり合ひぢや、とり手の志願者が殺倒して、一騒動が持ちあがるだらうよ。」
「空想ぢやないんですのね、あなたの「西部劇の歌」といふ作品は――」
「生活記録だね。」
「ぢや、あなたは、あの時分には、ほんたうに、あんな、アメリカ・インヂアンの着物を着て、麦袋を担いだり、枯草を積んだ馬車を駆つたり、居酒屋で手風琴を弾いて騒いだりしてゐたの?」
「思ひ出しても冷汗を覚える。――憫れなる者よ、何故あつて汝は汝の見る客観世界に満足せざるか、汝は太陽・月・星辰及び海原よりも、観るべき更に豊かな、更に偉大なる何物を把持するや――この聖人の言葉は俺の胸を貫く、それ故に俺は俺の幸福の追求のために与へられたる凡ゆる実在の事物に最高の満足を求めて悔なき筈であるものの、何故なるか、過去の己れの姿を回想するに及ぶと、その姿の憐れさ、その行為の滑稽さに目眩んで悪夢の谷に転倒する、明日、省る今日の己れが怖ろしい。」
「だからお酒を止めれば好いのよ。」
「うむ。都合が好いことには俺は空気にでも酔つ払ふことが出来るんだ、酔はうとさへ思へば――一杯のデイルスの水と一壜のウオッカとの差別も知らぬ。悪夢の谷を――陶酔の――と云ひ代へることだつて、別段至難の業とも思はれぬまでさ。馬鹿な話は止めて、さあ、もう一遍踊らう。」
「……で手紙は、何うなつたの?」
「さうだ――で、書かうと思つたらペンが何処かへ行つてしまつて見つからないのさ。そこで、鉛筆を拾ひあげると、こいつがまた折れてゐるんだ。」
「まあ、可哀想に――」
「ナイフなんてありはしない。で、うつかり大事な剃刀で、そいつを削つて手紙を書いたのは好かつたが、さて今度は※[#「髟/(冂<はみ出た横棒二本)」、第4水準2−93−20]を剃らうとすると、さあ大変だ……」
「面倒な話だわね。宿屋の近所にだつて床屋位ゐあるでせうに……」
「…………」
「ほんたうに、その※[#「髟/(冂<はみ出た横棒二本)」、第4水準2−93−20]ぢや、憂鬱にもなるでせう。折角、そんな新しい着物を着てゐるのに――」
「何うかして、俺の尊敬するタルニシア姫の頬ちかくに、この顔が近づきはしなからうと思ふと、気が気でなかつた。それ以外に何んな哲理を索めあぐんでゐたわけでもなかつたんだよ。失敬――」
「このビルヂングの下にだつて、床屋がありますから一寸行つていらつしやいよ、案内してあげますわ。」
「…………」
「ぢや散歩に出かけませうか。」
「もう一度踊らう――そのうちには、うちの細君を迎へに行つた馬車が帰つて来るだらうから。」
 そして私達は再び踊りの群に投じた。
「はるかに聞える太鼓の響、新たに来れる唱歌隊――こんな歌を知つてゐる。」
「知らないわ。」
「大昔のドイツの歌だよ。」
「でも、調子好くステップに合ふぢやありませんか。」
「合さうと思つて歌へば何んな類ひの歌だつて、その場その場のステップに合ふ位ゐのことは当然ぢやないかね。――可憐な驚き方をする愛らしい人形だ、君は!」
「ぢや、もつと歌つて御覧なさいよ。今よりも、もう少し低い声で――ね。」
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「一度は美味に飽きたれど、
今は絶えて口にせず、
踊り躍りて破れ靴
これより先きは跣足だよ。」
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「面白い歌だわね。それから?」
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「沼の中より現れて、
舞踏の列につらなれば
……………… 
[#ここで字下げ終わり]
「あら、もつと小さな声で――といふのによ。」
[#ここから2字下げ]
「…………
舞踏の隊はすすみゆく
曲りし脚は跳ねすすみ
肥つちよ脚も飛びすすむ
見得外聞に懸念なく
ランラ、ランラ、ランラ……」
[#ここで字下げ終わり]
「もう――沢山だわ。そんな大きな声で、見つともなくて困つてしまひますわよ。」
「やあ、窓から月が見える。――やあ、綺麗だ、花火が見事々々。……俺は斯うしてはゐられなくなつた。さよなら――」
 私は後ろも見ずにホールから駆け出した。馬車は忠実に私を待つてゐた。

 仏壇に灯明の炎がゆらめいてゐた。黒い壁に包まれてゐる焔が、青白く私の眼に映つた。インヂアン・ガウンを頭から眼深く被つた私は、雨戸の隙間から、ものの一時間も凝つと青白い炎を瞶めてゐた。
「俺は怠け者ではない。だが俺の勉学も労働も俺の空腹を充すに足るだけの物質を俺に与へないのである。辛ひに俺は、此処に見すぼらしく憐れに苔むした生家の名残を見出してゐるのだ。何うして俺は、この行為を自ら掠奪と称び、盗み――と嘲り、真に盗賊の挙動で、斯んな風に忍び込まずには居られないのだらう。親愛なる妻にまでも俺は、この行為を秘密にしてゐるではないか。馬鹿奴、真ツ昼間に大手を振つて出直
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