切つて行く者。
「酷い目に合つたよ。彼奴が、そんな悪人とは気付かなかつた。」
「悲しみを知つてゐる悪人であるところが、惨めだな。」
ちよつと耳を澄すと、耳の傍らを寄切つて行く人々の切れ切れの言葉が、はつきり解るのである。
「憐れな男だ。一体彼奴は何に憧れてゐるんだらう。」
「虚妄と現実の境界線を見失つてまるで化物のやうな歩き振りをしてゐるぢやないか。」
聞くまい――と思ふと直ぐに消えてしまふ、面白いやうだ! 私は、作曲家のやうに空を見あげてゐる。見る見るうちに黄昏の帷が深々と降りて行き、彼方の高楼の屋上、此方の店先の軒先に、青、赤、黄の万花灯《ネオン・サイン》の光りが一斉に瞬きはじめてゐた。窓々の拡声ラッパは花やかな夜の開幕を告げる狂燥曲を放送しはじめてゐた。濤の音が忽ち圧倒されてしまふ。
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万有の精は吾が心のうちにあり
天地を流れ、吾が心を流れて
おお、この止め度なさ
君を抱きて吾狂せん――
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街の音楽は十五世紀の理想家が歌つた恋歌を奏でてゐるかのやうである。試みに、口のうちで、あの長い歌詞の処々を口吟んで見ると、ぴつたりと街の音楽のリズムに合ふのが私は愉快であつた。
「あの唄は流行してゐるの?」
「雨の中で歌ふ――とかといふ、つい此頃出来たレヴュウの小唄でせう。」
娘が斯んなことを話し合ひ、ラヂオに合せて私の知らない文句の歌を口吟みながら過ぎて行つた。
今の私の――とは似ても似つかぬ歌であるらしい。おやおや! と私は思つた。で私は、もう一遍私の歌をうたつて見た。
愉快だ! まさしく、街の音楽は私の歌の伴奏である。
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太鼓の響きが聞えるだらう
唱歌の声が聞えるだらう
新来の音楽隊か
否、否、君よ、驚く勿れ
裏山の沼のほとりの
蘆の中に群れつどうてゐる
五位鷺達の騒ぎだよ
………………
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突然群集がワーッ! といふ歓声を挙げた。それに伴れて私も思はずその方角の天を仰いで見ると、素晴しい花火が散つてゐるところであつた。――いつの間にか私の眼の前は物凄い群集であつた。花火のあがる空の下を目指してゐるのだ。無数の自動車が行手を塞がれて街一杯にあふれてゐた。そして、合間を置いては堰が切れてドッとばかりに流れ出すのであつた。
「宝あり、青き焔の炎ゆるところに――」
群集
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