在世当時の幾つかの場面を追想した。それは皆な、低級な新派劇に見受ける光景と大した差違はなかつた。
 ……事業熱に浮されてゐるお調子者の父親、母親はうわべ[#「うわべ」に傍点]では旧家の格式を重んじ、夫や悴を古風な教育に屈服させようと努めるのだが、夫は彼女を軽蔑してゐた。
「十何年も外国で暮して来た男だ、妻を棄て子を棄て、家財を蕩尽して――。家柄もへつたくれもあるものか、家《うち》の方が一級下の身分なんだつてよ、そんなことを鼻にかけてる阿母なんだ。」彼女の夫は悴に、酔つてそんなことを云つたこともあつた。「やきもちやき[#「やきもちやき」に傍点]なんだよ、/\、いゝ年をして……」
 そんなことを父が喋ると、面白がつて笑ふ彼だつた。そして独りの心で、憂鬱になる彼だつた。彼は、既に嫁を娶つてゐる年輩の不良青年で、頭にも腕にも何の覚えもなく、漫然と父母の膝下に生きてゐた彼だつたから、父が妾を持つて家庭に風波が起つても、母の命令で父を迎へに遊里へ赴くことを、内心寧ろ花やかに思つてゐた。
 こんなこともあつた。
「随分遅いなア! また迎へに行つて来ませうか。」母思ひらしい口振りで彼は云つたが、肚はあの賑やかな父の居るところへ行つて一処になつて遊びたいのだ。彼は、友達とは何回かさういふ処へ行つたことがあるが、父と一処に酒に酔ふのが好きだつた。それに、父の席だと、芸者達が好い具合に彼をもてはやして呉れるので、彼はそれが嬉しくて仕様がなかつた。
「私も一処に行かう、伴れてツておくれ。」と彼の母は云つた。
「それは好くないでせう。」彼は機嫌の悪い顔をした。「僕だつて実に迷惑なんですよ。清友亭なんぞへ行くのは――」
「だから……」と母は一寸笑つた。「私も一処に行かうよ。今夜こそは、満座の中で阿父さんにきつぱり意見してやる――」
 彼は、ゾツ[#「ゾツ」に傍点]と身震ひした。……定めし阿母は、やる[#「やる」に傍点]ことだらうな――と思つた。
「お止めなさい/\。柔かく当らなければ駄目ですよ。……阿父さんに気の毒だ。」
 母と彼は、俥を連ねて清友亭へ駆けつけた。
「私は一寸買物をして行くから、お前は先へ行つてゐてお呉れ。」
 母は途中でさう云つた。
 彼は廊下でお蝶と出遇つた。彼は堪らない気遅れを感じた。一寸挨拶が出来なかつた。
 お蝶は嬉しさうに笑つて云つた。「今お宅へお電話を掛けるところ――。お迎ひの催促、トン子さんもゐますわよ。」
「大変だ/\、阿母が来る/\!」
「えツ!」とお蝶はたぢろいだ。
 彼は慌てゝ父の座敷へ走つた。そして同じことを叫んだ。父は、尻をまくつて、出たらめな奴さんを踊つてゐる最中だつた。
「私はあつちへ行つてゐます。」とお蝶が云つた。
「いゝよ/\。阿母が納得するやうに話してやらう。みつともねえ! 五十代の夫婦だ。」
「…………」
 彼は黙つて、正面の父の席に坐つた。この前の時彼は、父とお蝶の前でトン子といふ若い芸者を推賞したら、或はその為かも知れない、座敷の隅にちやんとトン子が坐つてゐた。彼は、惜しいことになつたと思ひ、トン子と父の顔を意味あり気に一寸眺めた。
「馬鹿奴!」父は笑つて、彼に云つた。
「来た/\。」と彼は小声で囁いだ。廊下に、妙に冴へた足音がしたのだ。お蝶は逃げ出した。父は、彼の方を向いて大きく口をあけて見せた。
 女将に案内されて、母が仕方がなく来たやうなしな[#「しな」に傍点]をつくつて入つて来た。女将と初対面の挨拶などした。
「いろ/\御厄介になります。お騒がせして申しわけありません。」
 女将は返答に困つて、お辞儀ばかりしてゐた。父と彼は、交互に盃のやりとりをした。
「皆な帰らないでもいゝよ。今日は家内中での遊びだ。」と父は云つた。母さへその気になれば、それは一寸面白い――と彼は思つた。
「シンイチに気の毒です。」と母は開き直つて云つた。「勉強が出来ないと云つて、毎日これは滾してゐます。これは夜でなければ勉強が出来ない質《たち》です。」
「さうか?」父は彼を振り返つた。彼はにや/\と笑つて、盃を重ねた。
「私にばかり滾さないで、お父さんにはつきり断つたらいゝでせう。」
「…………」
「親がこの態では、子供のしつけなんて出来る筈がありません。」母は、醜くゝ落つき払つてそんなことを云つた。
「御免/\、親父が馬鹿なら阿母が賢夫人だから、丁度いゝぢやないか。親父のやり損ひは愛嬌としてしまへ。――」
 彼は、自分が玩具にされてるやうな不快を感じた。だが斯うなると彼は、上ツ面ばかりが安ツぽく狡猾になつて、
「いゝですよ、阿母さん。」とワザと調子の低いしんみりとした声を出して、
「私だつてもう小供ぢやないんだから……」と云ひかけて、残りは万事胸に心得てゐるといふ風に、笑顔をもつて点頭いて見せた。何を心得てゐるんだ
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