のは忽ちスロープを降下する橇のやうにもんどりを打つて滑り落ちた。
「これぢや、どうも取りつく島もないぞ。」
 連中の青息は穴のあいた風琴のやうに手応えもなくなり、狸腹や狐憑きの姿も消え失せて、阿父は道具立てばかりが依然として艶々しい独り舞台で腕組をしてゐるのが目立つた。所詮は抵当物件を悉く提供しても、辛うじて債務の域に達する程度で、わづかな蓄妾費の捻出にさへも事欠く状態らしかつた。多くの銀行は一斉に大扉を降すといふ騒ぎが起つたりした。
「何あに、もう少しの辛棒だ。ねえ君……」
 と阿父は思はず話相手にもならぬ私を、仲間とでも見違へて、そんな風に呼びかけたりした。「――あれまで進んだトンネルがこのまゝ中止になるなんてことがあるものか。僕はどんな恐慌が来ようと、政府は信じてゐるんだから……」
 大地震が勃発した。
 私は、両親にあいさつをするいとまもなく、甲斐々々しい背広服をまとつて、東京へ出ると即座に新聞記者の職を求め、実にも華々しい活躍に寝食を忘れた。そして休日毎に遥々と故郷の父母を見舞ふと、二人は仲違ひの状態で、阿母は米塩の資《もとで》だけには事欠ぬと云つてゐたが阿父は西瓜畑の一隅の、漂流者の住みさうな小屋にもぐつて、
「俺ニハ一文ノ金モナクナツタヨ。はつどつぐ[#「はつどつぐ」に傍点]デモ捏ネテ売リ出サウカシラ?」
 と、たしかにこれもフリガン君と見るより他はない茫然たる無表情の貌で目を丸くしてゐた。
「心細イコトヲ云ハナイデ欲イヨ、だつでい――僕トイフ息子ノアルコトヲ忘レタンデスカ?」
 私は胸を張り出して、大いに慰めた。阿父と英語の会話をとり交したのは全く暫くぶりだつたが、やはりこの方が具合が好かつた。――既にして私は再び明朗至純なる文学青年としての心懐をとり戻してゐた折からであつたから、人間の姿の本来なるものゝ純粋さこそは、寧ろその得意の場合よりも、失意の上にのみ釈然として認め得らるゝものであるといふ自信を持つてゐた。
「オ金モ、今日ダツテ、コレグラヒ持ツテ来マシタ、マタ来月モ持ツテ来ルデセウ、だつでいニ贈リタイノデアリマス。」
 私はポケツトから、あるだけの紙幣をつかみ出して五十円を並べたりした。すると彼は、心細気に横を向いて、
「俺あ、いらねえよ。折角お前えがとつたものなんだから服でもつくつたら好からう。」
 と今度は、明瞭な方言で唸つた。そして決して受取らうとしないのであるが、私だつて出したものを引つこめるわけにもゆかないので、不図、もう羽織も欲しい季節だといふのに浴衣の重ね着をして控えてゐた傍らの雛妓《おしやく》を見たので、慌ててその子に渡すと、その養母《はゝ》と二人が非常に丁寧に頭をさげて、
「若旦那様、どうも有り難う――」
 とお辞儀をした。
     ――――――――――
 私は、或る事情のために本稿を此処で中断しなければならない。私は、これから急拠故郷の母の許へ赴くべき用件に迫られたのである。今では普通列車でも一時間三十分で達するのであるが、私は特に、超特急「ツバメ」の急行券を求めて、三十分だけでもの便乗時間を短縮せずには居られない。阿父は、あの漂流小屋で酒を飲み過ぎて斃れ、既に十数年の星霜が経つてゐる。丹那トンネルが開通したのはこの冒頭に誌した如く、去年の今頃であるが、従令阿父が健在であつたにしても、沿線のどこの一個所にも所有を保つた土地も無くなつたから、晩秋の大祭りの酒もうまくは飲めなかつたであらう。――十一月になると未だにナタリーは私の誕生日を祝して贈物を寄せるのが、あの「宮に似た」のエレヂイを私が説明した頃から、二十年以来の習慣である。夫々所持してゐたバースデイ・ブツクにサインを交したのは恰度あの頃であつたが、私はいつの間にか、それを紛失した。



底本:「牧野信一全集第六巻」筑摩書房
   2003(平成15)年5月10日初版第1刷発行
初出:「日本評論 第十巻第十二号」日本評論社
   1935(昭和10)年12月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:小林繁雄
2006年5月3日作成
青空文庫作成ファイル:
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