度いと仰言つておいでなんだもの、度胸を決めて出てお呉れ、ねえ、ねえ……」
婆さんはもうおろ/\としてゐたが、頑として私は動かなかつた。私は自分でもその頑迷さが解らなかつた。
その代り私は、余興が幻灯会に移つた時にちよつとの間だけ映写技手をやらせて呉れと申出た。花輪車といふロクロ仕掛のウツシ絵が唯一の動く絵で、色絵具で塗つた二枚合せの硝子板が夫々逆に回転されると、恰度万華の花片がむく/\と涌きあがるかのやうに見え、手風琴や竹紙《ちくし》の横笛などが加はる青年バンドに調子を合せて、技手はたゞそれをぐる/\回すだけであるが、次第に急速に進む音楽と共に、いつまでも回つてゐると、見物は鬨の声を挙げて悦んだ。大概それが閉会の合図であつた。私は普段独りで工夫して、誰にも観せる筈でもなかつた手製のウツシ絵を取り寄せて、決心の胸を震はせながらその後で映写した。
「えゝ、こゝに番外として御紹介致しまするのは……」
と専門の弁士が私の名前を口にして、この工夫画を吹聴するのを耳にすると、私の全身は火のやうに熱くなつた。その絵といふのは短冊形の長い硝子板に様々な行列やら軍艦の数々などを描き、一端から小刻みに繰り出して、回り灯籠のやうに多くのものゝ姿を順々に引き出すのであつた。その晩私は、軽便鉄道が今や濛々たる煙りを吐いて出発する一巻や、祝賀の行列が軍楽隊を先頭にして繰り出す光景などを映写した。普段は婆さんと阿母だけが見物人で、私は口笛を伴奏にするだけなのに、その晩は、ほんとうの楽隊が調子を合せて、汽車の歌や、祝賀の歌を奏したので、私は全く有頂天となり、指の先は思はずブル/\と無技巧的に震え、却つてそれが汽車の走り出すさまを写実した如き効果を呈した。スクリーンの向方側には何万とも数知れぬ見物人がゐるやうに思へた。事実この映画は、割れ返る程の人気を博して、同じものを二度も三度も上映させられた。素晴しい楽隊の伴奏があつたからこその面白味だつたのに、忽ち私ばかりが八方から感激の嵐を浴びた挙句とう/\町長さんに手をとられて見物人の前に立たされた。(映写機は幕の裏側にあつて、見物人は反対の表面から見るのがその頃の常例だつた。だから私は技手としての姿を人に見られる心配はないと安心してその役を申し出たのでもあつた。)
半紙大ほどの土地の新聞は早速と「天晴れ牧野少年の発明幻画を讚ふ」といふ大見出しで、その「奇智に富める工夫」を絶賞し、諸名士の感激談までを併載した。それを読んだ婆さんと阿母は声をあげて、嬉し涙に掻きくれ、山高シヤツポを何故か稍あみだ風にかむり、厳然と構えて眼を据えてゐるが、軽く口腔をあけつ放しにしてゐるのが何だか折角の威厳をそいでゐるかのやうなお爺さんの、今はもう大型の額ぶちに収まつた写真となつて物をも言はぬ肖像の下に、三人は頭をならべて平伏し、誉れに富んだ報告祭を営んだ。
「おぢい様が御丈夫だつたら……」
婆さんはそればかりを繰り返した。
「これぢや、登りでも下りでも歩く心配もなけれや、後おしも要らず安心だね。」
私たちは打ちそろつて梅見へ出かけた。ところが真鶴を過ぎるころになると、激しい煤煙と振動のために婆さんも阿母も攪乱を起した。「軽便」の煙突は釜に不釣合に細長くて頂きに網をかむせた盥のやうな恰好のものが載つてゐるので、暴風などにあたつて激しく揺れ過ぎると、中途からポツキリと折れることがあつた。しかし私は、その機関車の姿を指差して、
「ねえ、母さん――スチブンソンがつくつた汽車の画に似てゐますね。」
と好奇心の眼をそばだてた。
「岩吉は機関手になる試験を受けて、落第したんだつてさ。」
と母はわらつた。
やがて婆さんは、あれが出来たから今度こそは何時でも気軽に熱海に行けると悦んでゐたのに、あの煙突と笛の音を思ふと体がすくんでしまふ――と滾しはぢめた。車体の小さいのに比べて、走り出すと恰で馬力《トラツク》が駆け出したかのやうな地響きを挙げ、蒸汽の音は駄馬の吐息のやうに物凄かつた。この物音を聞くと沿道の人々は「それツ、軽便が来たツ」とばかりに駆け出して、物珍し気に見物した。すると運転手は益々得意になつて要もないのに激しい汽笛を鳴しつゞけた。さういふ物見高さに煽られて多くの運転手達は女道楽に身を持ち崩した。
私が中学二年の春休みに、熱海から祖母を迎へ返すと、途中で三度も手をひいて降りなければならない程の状態となり、家に戻つてからは寝たきりになつた。私はその枕元で昼となく夜となく、アメリカの父から来る新聞や手紙を読み聞せた。私は六歳の時からカトリツク教会のイギリス人に伴いて読み書きを習つてゐたので、もうその頃は外国からの少年雑誌《セントニコラス》や新聞の日曜漫画など、即座に日本語に移しながら朗読が出来た。人気者のハツピー・フリガンのことを私は缶チヤンと称び換へて、聴手を笑はせた。その赤い筒型のシヤツポが恰度缶詰の缶のやうだつたからである。私は、その画を早速と例の硝子板に模写して、婆さんの枕元に写し出して、おどけた声色などをつかつた。
「えゝ、こゝに御覧にいれます今週の番組は(缶チヤンと狐)の巻であります。狐の襟巻がはやり出したときいた缶チヤンは、早速一儲けしようと膝を打つて、此処に養狐事業を計画いたしました。例に依つて缶チヤンが如何なる失敗をいたしますかは、次々の幻灯に随つてよろしく御笑覧のほどを……」
他所の人がゐないと仲々能弁な私が、幕の後ろで斯んな説明をはぢめると、婆さんと阿母はもう腹を抱えて笑ひ出した。――或る晩祖母は、あはゝ、あはゝ――と笑つてゐるので、私は例の如く益々得意になつて次々なるウツシ絵を差し換えてゐると、不図阿母が異様な叫び声で私の名を呼んだ。
祖母は、あゝ、あゝ、あゝ……と未だ笑つてゐるのに! と私は不思議がりながら、傍らの雪洞を燭して枕元に駆け寄つて見ると、あゝ――とわらつた表情のまゝ、息が絶えてゐた。
「あゝツ、お母さん!」
と母が呼んだ。
「おばあちやん/\、どうしたのよう。」
と私も精一杯の声で泣き、その胸にとり縋つた。
「わしや、もう一遍熱海へ行きたいんだが、あのケイベンの煙突をおもふと、直ぐにむか/\して来る。せめてお前の描いた絵でも見て慣れたら、しつかりするかも知れないから写してお呉れよ。」
祖母は、幻灯会を終へようとすると屹度斯ういふので、その時も「フリガンと狐」の連続ものを終つた後で、傑作の汽関車を写し出さうとした途端だつた。電灯がついて明るくなつた襖の境に垂れさがつた白けたスクリーンの上には、走り出さうとした汽缶車の先端がぼんやりと写り放しになつてゐた。
三
熱海線が国府津駅から延長して真鶴まで達し、小田原は町を挙げて山車を繰り出し、連日の祝賀に酔ひ、また憐れなケイベンは風琴の蛇腹のやうに真鶴・熱海間と縮まつたのは大正十一年の暮であるが、いよ/\ホントウの汽車が敷けるといふ噂が立つて小田原や真鶴や熱海の土地の価格がにわかに高まつたのは、それより更に十年ちかくも前からであつた。祖母の訃を受けて帰国した私の父は、毎日退屈をかこつて、二年三年生の私ばかりを相手に鉄砲打に出かけたり、ポーカーを教へたりして、何となく成人《おとな》の友達扱ひであつた。私には父の態度が、祖父母や母の古風なミリタリズムの教育風とは全くその趣きを異にして、突ぴよう子もなく自由気なのが余程の驚きであつた。
「何ダイ、オ前ニハ女学生ノ友達ガヒトリモヰナイナンテ、随分気ガ利カネエハナシダナ。早速俺ノ友達ノ娘ヲ紹介シテヤロウ。素晴シイ別嬪ダゾ。」
彼は斯んなことを云つて私の肩を叩いたりした。尤も彼と私の会話は、自家の中では英語ばかりだつた。私はあの如く余程成長してから始めて父親の姿に接し、元来はにかみやであつた所為か容易に日本語では即座に「お父サン」などゝ云つて親しめなかつた。それが父親に会つて以来は益々ペラペラと外国語を喋舌べれるようになると不思議と、何うしても日本語では云ひ憎い感情でも思ひのたけでも難なく滑り出すのが吾ながら異様だつた。
「ソレハ甚ダ有リガタウ、私ノ親愛ナル父サンヨ、私ハ従来、男女七歳ニシテ席ヲ同ジクスベカラズトイフ道徳的観念ノ中ニ育テラレ、ソレハソレトシテはんさむナ掟トシテ反抗心ナド抱キハシマセンガ、近頃特ニ思考シテ見レバ、ソレハ伸ビヨウトスル青年ノ心ニ稍トモスレバ Blue−Devil《ゆううつ》 ノ陰影ヲ宿ス源因ニモナルト思ツタ。私ノ中学ノ幾多ノ先輩ガ窮屈極マル――ソレハ日露戦争時代ノ軍事教育ヲ旨トシテヰル老曹長ナル学生監《チユウタア》ノ圧迫ガ酷イノデアルタメ――学窓ヲ放タレルト同時ニ急ニ不思議ナ紳士《おとな》ニナツテ数々ノすきやんだるヲ遺シテヰルノヲ見テモ実ニ寒心ニ堪ヘン次第デアリマス。」
「オヽ、頼モシキ思想ノ持主ヨ、新日本ノ後継者ハ立派ニ新シイ騎士道ヲ樹立セナケレバナランノダ、女学生ト附キ合ツテ Girl−shy(助平心)ヲ起スヨウナ習慣ハ少年ノウチカラ彼女等トノ交遊ニヨツテ振リ棄テルヨウニシナケレバナランノダ。」
「非常ニ私ハ女ノ友達ガ欲シイヨ。」
こんなことを若しも日本語で喋舌つたならば、即座に阿母は薙刀でも持出して、そこへ直れとでも叫ぶだらう――などと私達は笑つた。大体私と彼が、そんな会話を用ひるのを阿母は眉をひそめたが、それは単に語学の練習だと云つて納得させた。私も折々自分の喋舌ることを秘かに自分の胸に和訳して見ると、気狂ひにでもならなければ到底口にすることも適はぬ気障つぽさだと首をすくめたが、そんな反省などは喋舌つてゐる限りは何も残らなかつた。間もなく横浜からナタリーの一家などが遊びに来るようになつたりして、弥々私はお喋舌りになり、自転車をそろへてピクニツクに赴いたり、老若入れ交つてテニスに耽つたりして、間もなく中学を終へようとする頃になると、枳殻の生垣にとり巻かれた屋敷の隅々に測量の杭などが打たれ出した。熱海線の敷設がいよ/\開始されたのである。土地の売買する周旋人見たいな人物が、日毎におし寄せて阿父をとらへて、
「大したもんですな……」
と云つた。彼の卓子の上からは稍ともすればそれまで愛読してゐた旅行小説の叢書や鳥類剥製の道具やらが影をひそめて、測量図とか法律の本で一杯になつた。それと同時に彼の面上からは、今迄私を相手に冒険談などを聴かせて夜の更けるのも忘れた折の鷹揚な影も消え失せて、訪客ばかりを相手に厭に、深刻気《グルウミイ》な眼を据えて、万円とか幾十万円とかといふ話題に熱を吹いてゐた。つまり昔は一銭五厘位ひで買つたものであり今迄は売るともなれば二円でも三円でも買手もなかつたといふ屋敷や、真鶴の田畑や、熱海の山林などが、一坪の価が百円、二百円と、日増しに暴騰するのであつた。
「僕は決して手離しませんよ。自分としてのいろ/\の計画があるんだから……」
別の人からの注意で、それらの土地をこのまゝ十年も持ちつゞけて、やがて次々の駅に停車場が出来るとなれば、労なくして一躍大した富豪になるであらうとか、勧業銀行から金を借りて熱海海岸の埋立事業を起さうとか、其他枚挙にも遑もない計画が持ち込まれてゐるので、いろ/\な買手が現れても決してその手には乗らなかつた。
「いよ/\、停車場が出来るとなれば――」とか「小田原の家の竹藪の真ん中が、ステーシヨンの正面になると決つた。」とか「熱海まで延びて、更にトンネルが抜ける段になると……」とか、さういふ類ひの彼の興奮の声を私達は何百辺聞かされたことであらう。そして、書類でふくらんだ弁護士でもが持ちさうな手鞄を抱へて、何処へ行くのか知らないが俥ばかりを乗り廻した。往来で出遇つた時など、思はず私が以前のやうに手をあげて、ハロウ……と呼びかけても、今では彼はニコリともせず棒切れでも呑んでゐる見たいにしやちこ張つて、まん丸な眼玉を極めて真面目さうにぎよろりと輝やかせてゐるだけだつた。私は、決して故意に滑稽なる形容辞を弄するわけではない。余程真に迫つた矛盾の痛手を覚えさせられぬ限り、誰が親愛なる父の姿を漫画に喩える態の悲惨を敢
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