は不快な蒲団部屋と終ひにはトリを連想して、岩吉を憎んだ。岩吉は、どうやら独身者であつたと思ふが、その辺は何の覚えもない。トリは間もなく町でも評判の小町女中と噂され出し、或る有名な実業家の別荘へ小間使ひに抜擢された。
人車が軽便鉄道に改良されたのは、たしか私が旧制度の高等一年(今の尋常五年生)の時で、その前年の冬祖父は亡くなつてゐたのだ。
「おぢいさんは、とう/\、この汽車を見ずにしまつた。御覧になつたら何んなに悦んだことだらうに……」
と婆さんが述懐したのを私は厭にはつきりと覚えてゐる。婆さんと阿母と私は儀式張つた身装で入木亭の開通大祝賀会に招待された。街には軒並みに赤い幔幕が張られ、山車の花で飾つた底抜屋台が繰り出し、いつの間にか小田原へ戻つてゐた岩吉が芸妓連にまぢつて横笛を吹奏してゐた。会社の前には巨大な杉葉の緑のアーチが建つて、アーク灯といふ大ランプが煌めいた。あれを十《とう》かぞへる間眼ばたきをしないで視詰めてゐると目が回つてしまふと人々は驚嘆した。一台の花電車が三日も前から町の上下を運転して、弁当持で便乗する見物客が満員だつた。入木亭の店先には熱海の早咲の梅花が生けられ、女学生の活人画が催された。私の母は、その舞台監督に徹夜で振付してゐた。
夜に入つての余興には青年軍楽隊や少年剣舞が番組された。どうも私の挙動が日増に女々しく腺病質の傾向が萌してゐるといふわけで、婆さんに付添はれて大分前から剣舞道場に通つてゐたので、是非とも出演するように方々から指命されたが、私は終ひに泣いて拒んだ。どういふわけか、兼々私はあの如く誇張された武技の、勇壮な擬態振りを非常に嫌悪して居り、且つはまた凡そ身柄に添はぬ業と敬遠してゐたにも関はらず、日頃の道場では抜群の成績だといふ評判だつた。私は婆さんに見張られてさへ居なければ無論逃亡したのであるが、否応なく伴れ出されて、いざ舞台に立つて演技にとりかゝると、まるで人間が変つたように活溌至極と化し、今では婆さんでさへもが、陶然として見惚れずには居られなくなつたといふのであつた。私は之だけこそは大層な矛盾を感ずるだけで、決して得意になどなれなかつたのに、私の稽古が始まると近所の人はわざ/\見物に集つて、美しい悲憤の涙や、絶賞の大喝采を惜まなかつた。
「ねえ、今日こそおばあさんが折入つて頼むから、是非とも出てお呉れな。郡長さんまでが見度いと仰言つておいでなんだもの、度胸を決めて出てお呉れ、ねえ、ねえ……」
婆さんはもうおろ/\としてゐたが、頑として私は動かなかつた。私は自分でもその頑迷さが解らなかつた。
その代り私は、余興が幻灯会に移つた時にちよつとの間だけ映写技手をやらせて呉れと申出た。花輪車といふロクロ仕掛のウツシ絵が唯一の動く絵で、色絵具で塗つた二枚合せの硝子板が夫々逆に回転されると、恰度万華の花片がむく/\と涌きあがるかのやうに見え、手風琴や竹紙《ちくし》の横笛などが加はる青年バンドに調子を合せて、技手はたゞそれをぐる/\回すだけであるが、次第に急速に進む音楽と共に、いつまでも回つてゐると、見物は鬨の声を挙げて悦んだ。大概それが閉会の合図であつた。私は普段独りで工夫して、誰にも観せる筈でもなかつた手製のウツシ絵を取り寄せて、決心の胸を震はせながらその後で映写した。
「えゝ、こゝに番外として御紹介致しまするのは……」
と専門の弁士が私の名前を口にして、この工夫画を吹聴するのを耳にすると、私の全身は火のやうに熱くなつた。その絵といふのは短冊形の長い硝子板に様々な行列やら軍艦の数々などを描き、一端から小刻みに繰り出して、回り灯籠のやうに多くのものゝ姿を順々に引き出すのであつた。その晩私は、軽便鉄道が今や濛々たる煙りを吐いて出発する一巻や、祝賀の行列が軍楽隊を先頭にして繰り出す光景などを映写した。普段は婆さんと阿母だけが見物人で、私は口笛を伴奏にするだけなのに、その晩は、ほんとうの楽隊が調子を合せて、汽車の歌や、祝賀の歌を奏したので、私は全く有頂天となり、指の先は思はずブル/\と無技巧的に震え、却つてそれが汽車の走り出すさまを写実した如き効果を呈した。スクリーンの向方側には何万とも数知れぬ見物人がゐるやうに思へた。事実この映画は、割れ返る程の人気を博して、同じものを二度も三度も上映させられた。素晴しい楽隊の伴奏があつたからこその面白味だつたのに、忽ち私ばかりが八方から感激の嵐を浴びた挙句とう/\町長さんに手をとられて見物人の前に立たされた。(映写機は幕の裏側にあつて、見物人は反対の表面から見るのがその頃の常例だつた。だから私は技手としての姿を人に見られる心配はないと安心してその役を申し出たのでもあつた。)
半紙大ほどの土地の新聞は早速と「天晴れ牧野少年の発明幻画を讚ふ」といふ大見出しで、
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