受取らうとしないのであるが、私だつて出したものを引つこめるわけにもゆかないので、不図、もう羽織も欲しい季節だといふのに浴衣の重ね着をして控えてゐた傍らの雛妓《おしやく》を見たので、慌ててその子に渡すと、その養母《はゝ》と二人が非常に丁寧に頭をさげて、
「若旦那様、どうも有り難う――」
とお辞儀をした。
――――――――――
私は、或る事情のために本稿を此処で中断しなければならない。私は、これから急拠故郷の母の許へ赴くべき用件に迫られたのである。今では普通列車でも一時間三十分で達するのであるが、私は特に、超特急「ツバメ」の急行券を求めて、三十分だけでもの便乗時間を短縮せずには居られない。阿父は、あの漂流小屋で酒を飲み過ぎて斃れ、既に十数年の星霜が経つてゐる。丹那トンネルが開通したのはこの冒頭に誌した如く、去年の今頃であるが、従令阿父が健在であつたにしても、沿線のどこの一個所にも所有を保つた土地も無くなつたから、晩秋の大祭りの酒もうまくは飲めなかつたであらう。――十一月になると未だにナタリーは私の誕生日を祝して贈物を寄せるのが、あの「宮に似た」のエレヂイを私が説明した頃から、二十年以来の習慣である。夫々所持してゐたバースデイ・ブツクにサインを交したのは恰度あの頃であつたが、私はいつの間にか、それを紛失した。
底本:「牧野信一全集第六巻」筑摩書房
2003(平成15)年5月10日初版第1刷発行
初出:「日本評論 第十巻第十二号」日本評論社
1935(昭和10)年12月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:小林繁雄
2006年5月3日作成
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