かに鈍くなり、降りとなれば、運転手達は虫籠にとまつた蝉のやうに踏台に吸ひつき、その間こそは正に一瀉千里、「つばめ」か「さくら」のやうに実に猛烈な勢ひで砂塵を巻いて、滑り落ちるのであつたから、母は私を抱きすくめて震へて居り、あんなことを云つてゐた祖父にしろ思はず婆さんと声を合せて御題目を唱へるやうな始末だつたから、凡そ安楽な気遣ひは絶無だつたのだ。登りとなれば、大概の乗客がその速力の遅さに業を煮して、先へ立つて歩いたり、中には後おしの弥次馬に成る者さへあるのだから、そんな車の中で居眠りなどして居られる不人情家は見当らなかつた。
 町端れの停車場まで、私は爺さんと合乗りし、そして婆さんと私の若い阿母が、浅黄ちりめんの高祖頭巾を被り、毛布のやうに大幅の流行肩掛をかけて二人乗の俥に並んだ。姑と嫁がさも/\仲睦しいといふ、さういふ示威行為が流行したのださうである。私のいでたちはといふと、いつもそれで爺さんと母との間に一悶着が起りかゝるのであつたが、母は外国にゐる亭主が、息子《わたし》のために贈つて寄す洋服を着せ、どうせ途中で歩くのだからとボタンの長靴を穿かせようとするし、爺さんは、
「俺あ、メリケンは強《きつ》い嫌ひだよ。」
 と身震ひした。「歩くつたつて、人車ぢやないか。加《おま》けに岩吉がゐるんだし……」
「これは岩吉におぶさるのは嫌ひぢやありませんか。」
 と阿母は反対するのであつたが、洋服などを着た姿を友達に見られると、あとが怕いといふ当人の陳述も出て、大概爺さんの主張が通つた。私としては他所行の穿物といふのが、これがまた苦手の畳付の駒下駄であつたり、雪駄であつたりするために、加けに黄色い棒縞の厭に光つた袴など穿き、むかふに降りてから梅林のちかくの家まで行く間、転んだりするので、岩吉におぶさるのが常例だつた。岩吉は以前、小田原の俥夫であつたが、今時人力なんて曳いて居られるものかと発憤して人車の運転手に乗り換へたが、バクチを打つたとかの廉で間もなく免職になり、熱海で遊んでゐた。危く懲役へ行くところを、爺さんの口利きで救かつたとかで、恩に着てゐるさうであつた。(私は、そんな幼年の癖にして、そんな類ひの話を漏れ聞いてゐたなど――事実、記憶してゐるところを見ると、我ながら小癪な小僧と思ふのである。)
「岩吉は石川五衛門見たいだから、嫌ひだよ。」
 私は自分ながら、動ともすれば
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