云つたかと思ふと、矢庭に腰から拳銃を引き抜く真似をして、筒先を天井に向け、口で、ドン・ドン! と叫んだ。そして勢ひをつけて立ち上らうとすると、恰で脚がふら/\として、今迄の凄い科白とは凡そ反対に意気地なく危く倒れかゝつた。私は、思はず飛びついて彼の胴仲を支へた。
「よし/\、もう解つた/\!」
 と彼は忽ち好意の微笑を浮べて私の肩をつかんだ。「ハツハツ……日本橋の真ン中で山賊と馬賊が渡り合つても仕様がねえ。なあ、ロビン、見たところ金火箸見たようなチビ男だが、俺の科白に驚かなかつたのは、さすがに山賊らしかつたぞ。兄弟分にならないか。」
「顔だけは大分前から知つてゐたが、妙なことから口を利いたものだね。驚いたよ。」
「俺の家に遊びに来ないか、直ぐ其処だ。」
「未だ時間が早いな。俺はこれから日米に寄つて踊つて来るんだ。一処に行かないか。」
「絶対に厭だ。――ぢや俺の家の近所に来い、綺麗な昔ながらの踊りを見せるよ。」
 藤田氏は盃を少々遠慮しはじめた私の口に突きつけて、大いに飲み、そして俺の家に泊れ、と云つて諾かなかつた。――夜の、日本橋の此方側の酒場風景で、凡そ見失ふことのない点景人物の名前が藤田五郎といふ自称の「馬賊」といふことを私は、この宵にはじめて聞かされた。
「おい、そんな鳥の箱なんて此方に寄越せ、どうもお前えがそれを持つてゐると、眼つきが気になつてやれきれねえ。」
 藤田氏は、おでんの鍋から串にささつたうで玉子をとり出して、之でも喰《くら》へ! などと強制した。いつか私達は、たこやす、おでん屋の段といふ長い名前の家に紛れ込んでゐた。此処には何時も私達はバアを追はれる時刻になると、飲み足りなさ、語り足らなさ、空腹さを抱いてよろけ込む家である。酒通の友人美浦君の言に依ると此家の生烏賊の何だつたかは推賞に価する逸品の由であるが、私の出鱈目の口は何時でもその玉子ばかりを貪る。藤田氏はそれを知つてゐると云つた。私には珍味だ。
「外を通つたら声が聞えたのよ。やつぱしさうだつた。」
 私が串ざしの玉子を構へてゐるところに、私の細君とテル子がのぞいた。テル子の夫君も一処だつた。
「よしツ、橋を渡つて向ふ側に行かう、朝まで飲まう! なんて云つてゐたのは誰?」
 テル子が此方には通じぬ皮肉気な笑ひを浮べながら囁いた。
「案内しませうか?」
 テル子の夫が附け足した、葭《よし》町の花街の謂であるらしかつた。私は、断髪洋装の細君の思惑を気遣つて、激しく辞退の首を振り、
「日米のダンス・ホールへ行く約束だつたね。」
 と云つた。実地踏査と称して毎日出歩いてゐながら、おでんやの段の周囲にばかりうろついてゐたことが顧みられた。で今度は私が藤田氏の腕を囚へて無理矢理に立ち上り、私は物々しい口調で、河岸のすし屋が、いらつしやい/\と呼んで呼び込む変な事になつてしまつたとか、それにしても、これらの風景の真中にあるキリンの橋に明治四十四年三月と残つてゐるのは感慨無量ではないか――などと独白しながら、幾分もう春めいた夜気の大通りに出た。細君はテル子夫妻の案内で、今宵はぢめて中華亭の金ぷらを知つた――などと私にさゝやいだ。藤田氏は途中で巧みに逃げてしまつた。

     八

 いつもなら夫と伴れ立つて下谷の店に出かけるテル子であつたが、もう一日休む――と云つた。テル子の家は、呉服町の、とある一間幅の露路にある小さな二階家である。私達はこの二階に五日も逗留してしまつた。
「斯んなところに住んでゐながら、デパートに歯医者があることやら何とかゴルフが出来たことやら、あべこべに教つたりして……」
 テル子がそんなことを云つて嗤つたので私は得意気になつて、
「テルちやんも、もつとダンスを習つたら何うなの。僕は日米しか知らないけれど彼処の昼間を知つてゐる?」などと水を向けると、
「藤田さん――でしたわね、昨夜の人? 途中で逃げちやつたわね。」と話頭を転じた。彼女は何時でも私が幾分でも得意気な顔をすると相手にしないのが習慣である。
「昼間の切符は半額で十枚一円だよ、レコードで。練習は昼間が好いよ。」
「そんな暇なんてないよ。槙町の綺麗な人なんて来るでせう。」
 二階の壁に私が学生の時分に描いた「三味線を抱へてゐるテル子」のスケツチ板が何うして残つたものか古びたまゝ懸つてゐた。あれはテル子が二十歳位の時であつたか? などと私が細君に説明すると感心して眺めた後に、
「聞かしてよ。」と望んだ。
「本郷座に出かけて(日本橋)の芝居を観たのはあの時分だつたね。花柳のお千世にお前が逆《のぼ》せて、困つたことがあつたね。」
「勘弁してよ、そんな話……」
 テル子は顔を赤くして、非常に含羞んだ。
 八重洲通りに去年の秋頃から失業者のための夜店が並び出た。二三日前の晩に私はこの三人で散歩に出か
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