なつてしまつたわけさ。」
「酷い奴だな。――此頃彼奴は蜜柑畑のリラを追ひ廻してゐるさうだが、消息を聞かないかね?」
「聞かない。」
 と滝本はかぶりを振つた。蜜柑畑の働き手である此処の家の留守居の年寄の娘が、リラの花のやうな感じだといふので彼等はさう称んでゐたが――。蜜柑の季節になるとカーキ色のシヤツで、まるで少年のやうな姿で、畑の手伝ひをしたり、口笛を吹きながら御者台に乗つて問屋へ運ぶ荷物の馬車を駆つたりしてゐる八重といふ娘である。「八重《リラ》なら大丈夫だよ。太一見たいなあんなでれ/\した野郎が、変に云ひ寄つたりすれば、あの鞭でひつぱたかれる位ゐのものだよ。」
「……ネープのことを思ひ出すと俺は、何うしても太一の奴と……」
 武一は、もう今ではこの一番《ひとつが》ひより他に残つてゐない伝書鳩《ハンス》を籠から取り出して、可憐で堪らなさうに頬を寄せてゐた。
 滝本は、いつか武一が血に染つたネープの骸《なきがら》を拾ひあげて、泣いて――何う慰める術もなかつたあの日の事を思ひ出した。篠谷の倅の太一郎がステツキ銃でねらひ打ちにしたのである。
 銃声を聞いて――ネープの姿を見送つてゐた武一と滝本の眼に、同時に、ネープが燕のやうに腹を反して転落する態《さま》が映つた――二人が駆けつけて見ると、
「僕は野鳩のつもりで打つたんだよ。」
 太一郎が脚下のネープを指して寧ろ得意さうに呟いた。――武一は、たらたらと血潮がしたゝり落ちるネープを懐中《ふところ》の中に乗せると、素肌の胸に直接《ぢか》に当てゝ、彼女の体温を見守つてゐたゞけだつた。
「君は――」
 と滝本は思はず理性を失つて太一郎の肩をつかんだ。「さつき僕等がこれ[#「これ」に傍点]を飛ばさうとしてゐるそばを通つて――解つてゐた筈ぢやないか!」
「この辺には鳩は多いからね。」
 太一郎は皮肉な抗弁を試みたが、唇は微かに震へてゐた。――。
「僕はこの通り官札を持つた遊猟家なんだから……云へば、まあ、それは気の毒なことをしましたな――と、それだけの挨拶で済む筈だよ。」
「遊猟家だつて!」
 その言葉に滝本は、無比な憤りを覚へて、力一杯つかんでゐた肩先を圧《お》した。「鳩についてゐた手紙は何うしたんだ。君は、その手紙を見る為に、斯んな酷いことをしたんだらう。」
 その頃武一は滝本の処へ鳩の籠を運んで来ては、自家までの伝達の練習をつけてゐた時分であつた。――武一の家の屋根で、百合子がそれを待つてゐる役だつた。だから此方から飛す時に別段用もなくても何かしら通信文を認めて送つたりしてゐたのだ。屋根の上で、それを百合子が読んでゐるところを、太一郎は何時も遠くから眺めて、余外《よけい》な感違ひを起して好奇心を持つたのである。
 その時のは何んな内容だつたか滝本も忘れたが、
「うむ――それは……」
 太一郎が狼狽の色を露にして、
「手紙とは知らなかつたさ。妙なものがついてゐると思つて見たゞけだよ。そこに棄てゝあるよ。」
 草むらの蔭を指差したので、滝本が腕を離して、そつちを探さうとすると、
「あツ、間違へた――僕は、うつかり懐中へしまひ込んでゐた!」
 と慌てゝ太一郎が飛びのきながら示した紙片《かみきれ》を見ると、表に滝本が徒らに大きく書いた百合子の宛名があつて、そして、もう封が切つてあつた。滝本が更に責め寄らうとすると、もう太一郎は五六間も先へ逃げてゐて、振り返つて、
「好い気味だ。鳩位のことで泣きツ面をしてゐやがら――。今にもつと物凄い痛手を喰はしてやるから覚へてゐろ!」
 などゝ、いわれもない罵りを浴せて、一散に駆け出して行つた。夢中になつて滝本は追ひかけようとすると、ネープを抱いたまゝ草の上に倒れてゐる武一に気づいたので、武一の方へ駆け寄つた。
 裏山の櫟林の一隅には、その時武一と滝本が拵へたネープの墓が今も在る筈だ。
「で、守夫は、St. David《ダビツト》 といふことになつてゐるんだよ。」
 独りで点頭きながら武一が指命したので滝本は、わけも知らずに左う書き換へた。
(これは後になつて滝本は読んだのであるが、それらの名前は村井の、彼がいろいろな古典の騎士物語や神話中の人物を引用して、それに自分達の心象、経験、憧憬等を仮托しながら創作した新しい浪漫派の歴史小説中のことになぞらへてゐたのであつた。)
 メデユーサと称ふ女悪魔の従妹であるボーラスは夫を殺し、新しい夫を迎へるために、先の夫との子供であるパトリツクを邪魔にした上句玄関番の悪竜《ブラツク・ドラゴン》に命じて、彼を殺さうとした。|南方の騎士《シルバー・ナイト》の一員に加はる念願でパトリツクが或日、家を棄てゝ旅路に上つたところを竜《りう》は闇の森蔭で待伏せした。竜《ブラツク》は、その両眼を、パトリツクがその下を眼指して進路を運ばなければ
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