速武一君を伴れて来て……」などゝ慌てゝ、目配せをするといふ始末だつた。
「それはもう妾がとうに兄さんに訊ねたわよ。兄さんはお父さんに渡してあると云つてゐたわよ。」
「恰で話が合はんな!」
堀口は、思案が尽きて腕組をするとぐつたりと首垂れてゐた事もあつた。
「お父さんは、ひよつとすると、あんな風な癇癪持ちだから河の中へでも棄てゝしまつて知らん顔をしてゐるのかも知れなくつてよ。」
百合子が自分も不安さうにして斯んな事を云つた時には、堀口等は思はず異口同音に、失敗《しまつ》たなあ! と長大息を洩したものである。それから彼等は寄々相謀つた揚句、合鍵を鋳造することに決したが、何しろ二百年も前から伝はる錠前なので到底今日のものでは役に立たぬことが解つて改めて、入念の家探しに没頭してゐる時だつた。
森の屋敷は鬱蒼たる針葉樹林に取り巻れて、大昔の面影をその儘伝へたピラミツド型の斜面を持つた草葺屋根を二棟に分つた館を中心にして、池を囲らせてゐる。館の奥の間には、道中の大名が宿泊する「鶴の間」と称ぶ簾のかゝつた段上の部屋があるかと思へば、見るも怖ろしい丸太格子に区切られた牢屋があり、その壁には悪人の背上に百叩きの責苦を加へた拷問の鞭が、百年の年月の経過も知らぬ風情に、急用の役にも立たんと云はんばかりに掛け放されてある。また眼を庭園の彼方に放つならば昼も薄暗い崖の辺りからは源を遠く五里の山奥の古沼に発した堂々たる水勢が勢ひ余つて滝と溢れたかの如く、不断にきらびやかな水煙を放つてゐる態を見出すことが出来る。滝は満々たる水を池に湛へて、舟を浮べ、水鳥を遊ばせ、期節になると雁を呼ぶ――池の水は更に庭の中へ招び込まれて、床下を鯉が泳ぐ泉水となつて離れの茶屋から書院の窓下を流れ饗宴の広間の前に来て悠やかな渦を巻いてゐる。放飼ひに慣れた一番《ひとつが》ひの丹頂が悠々と泉水の合間に遊び、橋を渡つて築山の亭《ちん》のほとりで居眠りをしたり、翼を伸して梢に駆り空に呼応の叫びを挙げたりしてゐる。書院の裏手にあたる中二階造りの納戸部屋から蔵前に至る径は凡そ十間あまりの長廊下が泉水の末端を跨いで掛け渡され、現在でも廊下の往来には昔ながらの朱塗の雪洞を翳してゐた。「南方の騎士」達は、登山用のロープを用ひて塀側の木枝から蔵の裏手に降りると、鶴の舎《こや》の蔭に身を潜めて、納戸の窓から合図する百合子の雪洞の揺れ
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