知つて竦然とした。
 廷丁が、そつちへ歩いて行つた。と、寂とした室内に、ドン、ドン、ドン! と自暴に癇癪を起したらしい素晴しい靴の音が鳴り渡り、直ぐ廷外に消えた。裁判は、そんな物音などには頓着なく続行されてゐたが、間もなく次の日取りが申し渡されて終了した。私は、判官の頭の上に掛つてゐる時計をぢつと眺めてゐたのだつたが、全部で十分しか経たなかつた。
 まさかあの靴の音は父のではなからう、と私は思ひもしたのだつたが、傍聴席には父の姿はなく、此方が終ると同時に入口のあたりに立つてゐた廷丁がコツコツと元に戻つてゐた。では、あれは父だつたのか! 外で何んな顔をして待つてゐるだらう。――さう思ひながら私は、あまりの自分の無智を気の毒に恥入つて、失敗を自覚した受験生ほどの心で、ふら/\と廷外へ出て行つた。
 真昼の明るい陽が、白く一面に光つてゐた。私は、まぶしく眉を顰めてあたりをきよろ/\と見まはしたが何処にも父の姿は見あたらなかつた。
 こゝで、ヤマザキさんと並んでゐる窓のところにも来て、三十分あまりも独りで窓に凭つて、やはり斯うして外を見てゐたのだが、さつぱり父の姿が現れないので私は、あきらめて停車場へ来てしまつた。そこの待合室にも父の姿は見えなかつた。私は、一汽車やり過して次の汽車に独りで乗つた。
 家に帰ると、父は余程前に独りで戻り、とうに何処かへ出かけてしまつた――と、母が私に告げた。その日のうちに私は、熱海へ戻つてしまつたので、父の顔は見なかつた。裁判は、その後どうなつたのか私は、いまだに知らない。
 ――「随分、その靴の音は凄じかつたぜ。」
 風呂から上つた良子も傍に坐つてゐたので私は、周子に対する不気嫌さを無理に消すために、ふとさう云つた。
「何の? 何の靴の音!」
「うゝん――いや、今日、僕がだね、いよいよ自分の番になつた時にさ……あんまり長く待たされてしまつたんでね、別に坐つてゐたわけぢやないんだが、変にシビレが切れてしまつてさ……タキノといふ人と呼ばれた時には、夢から醒めた人のやうにハツとして思はず板の間を蹴つてしまつたんだね、そして強く脚に力を入れて歩いたんで、傍に居た人に妙な顔をされてしまつたのさ。」
「まア……」
「すつかりぼんやりして――」
「脚がシビレて?」
「脚ぢやなかつた、頭がさ……」
「そんなに待たされたの?」
「名前の呼び方がね、何だか変なんだよ、そこの役場の威張つた人のは……低い眠いやう声でね。」
「どうして――」
「此方は別に呼び棄てにされることはないんだね、と云つてさん[#「さん」に傍点]では向方としては具合が悪いんだらう……ヤマザキといふ人[#「といふ人」に傍点]とか、タキノといふ人[#「といふ人」に傍点]とかとさ、さん[#「さん」に傍点]の代りがいちいちといふ人[#「といふ人」に傍点]なのさ――何某といふ人[#「といふ人」に傍点]は居らんのかね、とそんな風に云はれてゐる人もあつた。それがまた、酷く厭々らしい憤つたやうな調子でさ……」
「…………」
 それがどうしたの? といふ風に良子も、さつきから沈黙を保つてゐる周子と退屈さうに顔を見合せてゐた。
 ヤマザキといふ人の方が、私よりも先に用事が済んで、
「お先きに――。大分混んで来たやうですから聞き損はないやうになさいよ。」と云つて帰つて行つた。
 私は、煙草を喫しながら窓に凭つて、白く光つてゐる真向ひの窓や、そこの石の階段や、まぶしく陽を享けてゐる小砂利の道などをうつとりと眺めてゐた。
「タキノといふ人……H・タキノといふ人は居らんのかね。」
 二度目にさう呼ばれた時に私は、木槌で胸を打たれたやうに吃驚りして
「はアい!」と、思はず、相手に反感を覚えさせる程に太く返事した。
「居ります、居ります。」
 さう云ひながら私は、慌てゝ小さなトンネル型の窓口に突きすゝんだのである。積つたばかりの雪の上を歩くやうに、厭にガクガクする膝骨をしつかり爪先きと踵で踏み応えながら、夫々の脚に注意深さを注ぎながら。
「直ぐに返事をして貰はんければ困るね、後がつかえてゐるのに。」
「はア、どうも――」と、私は、吻ツとしながら叮嚀にあやまつた。
「良ちやんは、二三日のうちに帰るんだつて?」
 私は、そんなつまらない思ひを振り棄てるやうに首を振つて、新しく良子に訊ねた。
「どうしようかしら?」
「僕らが帰るまで居たら好いぢやないか、一処に帰らうよ。」
「えゝ――だけど?」
「もう飽きたかね?」
「飽きもしないけれど……」
 周子が何も口を出さないのが私は、何となく気になつて無理にでも良子と話さなければならない気がしてゐた。
「ぢや、明日あたり皆んなで何処かへ遊びにでも行かうかね。」
「えゝ。」と、良子は、笑つて生返事をしながら立ちあがつた。――そして良子は、栄一を伴れて外の方へ涼みに出かけた。
「汽車にでも乗つて、日帰りが出来る処ぐらひにでも行つて見ようか。」
 私が、そんなことを云つても周子は黙つてゐた。そして彼女は、わざとらしく欠伸などして私の反感をそゝつた。
「口の臭い人となんか何処かへ出かけるのは御免だ。」と、彼女は、取り済して呟いだ。
 この間以来私たちは、それに就いての話は互ひにてれ臭さを抱いてゐるやうに一切口にしなかつたのだが、突然洒々と彼女からそんな言葉を聞くと私は、グツとした。
「…………」
「好い気になつてら!」
「何だとう!」と、私は唇を噛んで怒鳴つた。
「あなたは、自分ばかりを好い子にしたがると云ふ風な癖があるのね。良ちやんばかしぢやない、一体に誰の前でも、変な風に自分の妻をのけ者にするといふ風に、そして変に自分が他人に思ひやりがあるといふやうな思はせ振り……」
「何ツ、生意気なことを云ふない。さつきから癪に触つてゐたんだが、我慢してゐたんだぞ――」
「此方こそ……」
「キヽヽヽヽ。」と、私は歯ぎしりをした。「図々しい奴だ! 殴られるな。」
「殴つたりしたら!」
 彼女は、怖ろしく血相を変へて私の顔を睨めた。
「言葉の通じない国に来てゐるやうなものだ。……不便なことだ。」
「ぢや、喋舌るな。」
「喋舌らないや!」
 さう叫んで私は、彼女の頬をピシヤリと打つた。――そして、わざと憎々しく落着いて、横を向いて、魚のやうに口をあいて煙草の煙りを吐いてゐた。
 ……フヽンだ、皆んな何処へでも行つてしまへ、独りが一番静かで清々と好いや、皆んな出て行つてしまへ、俺は何ンにも喋舌りたくはないんだ、喋舌るのは面倒臭いんだ、厭だ/\面倒だア!
 そんな毒口をついたら、終ひには気狂ひのやうに暴れでもしなければ収まりがつかなくなつてしまふだらう……。
「フヽンだ。俺アお園さんのところにでも遊びに行かうかな。」
「よくも、打つたな……フン、何処へ行つたつて相手になんてなるものがあるもんか!」
「キ……、未だ生意気なことを云ふか。」
 私が、手を振りあげやうとすると彼女は「今度やつたら、あたしが暴れるぞ。」と、あたりに遠慮して声を殺して云つた。――そして、嫉妬の気色でもなく、たゞ沁々と私を見さげるやうに、
「あなたは――あなたは、毎晩この頃変に機嫌好く酔つてゐたわね、フツだ。……気をつけろ、馬鹿! あたしが一寸とでも傍にゐなくなると、急にでれ/\して良ちやんの手を引つ張つたりなんかするんだつてねえ! それが薄気味悪くて厭だから良ちやんは、帰らうかと云つてゐるんだよツ!」
 さう云つて彼女は、冷たく突き離して私の顔を睨めた。――私は、急に彼女の正視に堪えられぬ程、理由もなく顔が赧くなる思ひで、云ふ言葉が見出せなかつた。彼女は、私の弱点を突いたやうに思ひあがつて
「さうして、厭らしい顔つきをして、口を突き出したりするんだつてね、厭アな奴――この口をよう。」と続けて、矢庭に、ぽかんとしてゐた私に、震える手を差し伸すと、力一杯私の両唇をつまんでギユツとねぢりあげた。私の唇は、貝のやうに堅く閉ぢられて、縦になつた。
 何と云つたら好いか?
 私は、眼ばたきもせずぴかりと眼を視開たまゝ、云ふべき言葉の浮んで来るまで、その儘凝ツと唇を縦にされてゐた。私は、鼻腔だけで呼吸した。
 ――静かな夏の夜だつた。



底本:「牧野信一全集第二巻」筑摩書房
   2002(平成14)年3月24日初版第1刷
底本の親本:「中央公論 第四十一巻第一号(新年号)」中央公論社
   1926(大正15)年1月1日発行
初出:「中央公論 第四十一巻第一号(新年号)」中央公論社
   1926(大正15)年1月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年5月23日作成
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