な家に移れば移るで、彼女等の不滿の種はジヤツクの豆の木のやうに天までとゞきさうだつた。――全く彼女等も日増に鬱憤が積み重なつて、あられもない矛盾の板挾みになるのも道理だつた。樂屋では、そんなにも言語同斷な女書生《アマゾン》が、この家に移つてからといふものは、一度び門の外へ踏み出したとなると、如何にも立派な家に住んでゐるとばかりな濟し込んだ顏つきに變つて、奇妙に眼《まなこ》をかすめて、さもほのぼのと散歩するのであつた。そして停車場の前の待合茶屋にやすんで、用もないのに隱岐を電話に呼び出したりするのであつた。
「厭だよ。俺は、ゆふべ、まんじりとも出來なかつたんだから、これから眠らなけりやならないんだよ。」
「いらつしやいよ、お兄さま――二人で往くの、何だか退屈なんですつて、お姉さまつたら……」
「どこへ行くんだよ?」
「あら、何を空呆けていらつしやるの。オデオン座にボレロを見に行くんだつて、さつき申しあげたぢやありませんか。」
 隱岐は、彼女等が自分を笑はせようと、わざと氣どつた聲を出すのかとさへ疑ることさへあつたが、やはり彼女等は眞面目さうだつた。――永年の間彼は、女房にストイツクな精神生活を吹き込んだつもりだつたが、他合もないことで斯んなにも空々しく逆戻りしてしまふのかしら? と寧ろ不思議さうに首を傾けずには居られなかつた。畢竟、自分の罪だとおもつた。――眞實隱岐が、何も今更彼女等の行動を、皮肉や曲つた眼つきで眺めてゐるわけではなかつたのだ。うつかり批難めいたやうなことでも口にすると(少々隱岐のそれも毒々しくなるのであつたが――)特に近頃は彌生も細君も默つては居ずに、忽ち氣狂のやうに喰つてかゝつた。
「偉さうなことを云ひなさんなよ。あたしは何でも知つてゐるんだよ。お前は、いつか彌あ子に接吻したことがあるんぢやないか。加けに何といふ無責任なはなしだ。」
 細君は短氣を起して、いきなり彼の腕に喰ひついたことがあつた。――もう、それは大分前のことで東京にゐた頃であるが、隱岐は全く遇然の過失から、彌生に接吻だけを犯したことがあつた。
「ごめんよ。」
 とその時彼は、あやまつた。彌生は彼の膝に突伏して泣いてゐた。そして、夢中さうに首をうなづいてゐた。
 それきり、その後は、手を觸れたためしもなかつた。妻君の言葉に依ると、それ以來彌生の性格が變つたといふのであつた。
「責任といふのは……」
 隱岐は、さすがに蒼ざめて唇を震はしてゐた。長い間、知つて知らぬ振りを保つてゐた細君も細君だが、何時、どうして彌生はそれを口外したのか? と彼は降伏した。
「學校のことだよ。彌生が止めてしまつたのはお前のせゐぢやないか――」
 隱岐は、彼女の學校の費用ぐらゐは續けてゐるつもりだつたが、はなしが大それた問題に陷ちてゐるので、二の句もつげなかつた。
 うつかり四角張つたことを云ふと、今では彌生までが、それを叫び出す怖れがあつた。



        二
「このカーテン何處に掛けるんだと思ふ?」
 彌生は切りと圓い枠の中に針を動かしながら、妙に意地惡るさうな眼でちらりと隱岐を眺めた。隱岐はいちにち坐り續けた脚を炬燵の中に伸々とさせるのであつたが、折々爪先が彌生の膝がしらに觸つた。うつかりすると、平氣で彌生は無禮なことを云ふので隱岐は決して自分からは動かなかつたのであるが、如何にも邪魔ものが這入つて來たといふやうにぶつぶつ云ひながなら[#「云ひながなら」はママ]、彌生が窮屈がる度にひとりでに觸れて來るのであつた。それ位のことは彌生も無意識で、慌てゝ逃るやうな動作もせず、隱岐の方も無關心を裝つてゐたが、だが彼はその度毎に颯つと全身がしびれるのであつた。――彼は仰向けのまゝ、胸の上に立てかけた本を熱心に讀んでゐる容子だつたが、意味などは解りもしなかつた。
「さあ、何處にかけるのかね、俺の書齋の窓かしら?」
「ふツふ……、違ふわよ。このベツトの横に幕のやうに引くんだわよ。何時、誰に這入つて來られても安心のやうに――」
 と彼女は長椅子の上の鴨居を見あげた。その椅子は寢臺に變る仕掛けだつた。彼女等は、いつも二人で、そのまゝ炬燵に眠つたりした。
「この子は、ほんとうに寢像が惡いんだからな。」
 と細君は自分がいつも手傳つて慥へて[#「慥へて」は底本では「[てへん+慥のつくり]えて」と誤植]やる彌生の顏を凝つと眺めた。彼女は餘程彌生を自慢の種にしてゐて、殊に近頃は勿體振つて化粧のことまで兎や角と世話を燒き出し、何時でも相當につくつて置かないと、表へ出る時が如何にもケバ/\しくなるからなどと工夫を凝して、彌生が湯から上つて來ると、どういふのが一番似合ふかしら――と、人形の顏でも慥へる[#「慥へる」は底本では「[てへん+慥のつくり]える」と誤植]えるやうにして、白くして見たり、ドーランをはいて見たりするのであつた。つくつた上で、つくつてゐないやうに見えなければならない――などと注意して、睫毛に耽念なブラツシユをあてたり、眉を剃つて見たりするのであつた。
「あら……どつちがよ。」
 彌生は、細君を睨めたりしたが、細君は、その表情の動きと、化粧の具合を驗べて、自分の畫でも眺めるやうに眼を据えてゐた。
「ねえ、ちよつと起きあがつて見て呉れない、これぢや少しあくど過ぎやしないかしら?」
 彼女は隱岐を促した。彼は、顏の上に、ばつたりと本を伏せて
「俺には解らないよ。」
 と云つた。
「……、あたしの、あの、フアコートを着せてやり度いな。」
 細君は泌々と呟くのであつた。――彼女は、隱岐のアメリカの友達から贈られた可成り上等らしいビーバーの外套を持つてゐたが、殆んど手をとほしたこともなく、餘程以前から手もとには無かつた。何も彼も釣り合ひはしないから――と、さすがに細君は照れて、あきらめてゐたのであるが、この門構えの家を見た最初に、忽ち、それを着て外出する姿を浮べたのである。
「たつた四十圓で持つて來られるんだもの、何でもないぢやないの。」
 と彼女は口癖にして、隱岐を病ませてゐたが、一向それほどの段取りもつかなかつたのである。
「自分はちつとも欲しくはないんだけど、やあちやんに着せてやり度いのよ。」
「欲しいなあ……」
 彌生は深い息を衝いて憧れに滿ちた眼を輝かすのであつた。
 そのはなしになると何時も終ひには喧嘩が起つて、聞くに堪えない罵倒を浴びながらほうほうの態で逃げ出さなければならないので、隱岐はフアコートと聞くと慄然とした。
「コートだけあつたつて仕樣がないさ。第一、こんな陽氣の好い田舍の街を歩くのに、あんなものを着て歩くのは物々しいよ。」
「それが氣に喰はないのよ。理屈をつけるのは止めて欲しいわ。あなたはね、實に――」
 と細君はそろそろ昂奮した。「手前勝手な人間だわね、男らしくないよ。ひとを悦ばせて、結局自分も悦ばうといふ風な大きさぐらひは、誰だつて持つてゐるのが普通よ。實に、低級な自分勝手しかしらない憐れな人間だわ。」
「左うよ/\!」
 と彌生も眞面目になるのであつた。「自分で自分をごまかしてゐるのよ、狡いんだわ、そして度胸が無いんだ。」
「だから、何事につけても、やるならやるで、思ひ切りやり通すといふことも出來やしないぢやないか。――嫌ひだ。道樂をするならするで、凡てを放擲して、飽くまでも自分の思ひを通して見せるつていふ一貫したものが無い。あたしなんか、生活のことなんかに就いては、何もびく/\してはゐないわ。何時破壞されたつて、ちやんとやつて行ける自信があるわ。あたしはね、返つて、この人が滅茶苦茶なことをやつて呉れる方が、清々とするわ。何方つかずの奴が一番嫌ひさ。」
「戀人でもつくると好いんだよ。」
「さうとも――否應なく崖のふちに追ひやらなければ、いつまで經つたつて埒は明かないといふのさ。女でもこしらへて、うんと酷い目に合されると好いんだ。」
「つまり、姉さんが、あんまり兄さんに忠實過ぎるのがいけないのね。」
「他所の人のやうに、何でも、あなた/\と云つて、亭主にばかり頼つてゐた方が好いのね。なまじ、あたしに強い一面があることが不幸なのよ。――でも、あたし此頃泌々と他所の人が羨しいわ。夫に頼りきつてゐられたら、何んなに樂だらうと思ふわ。自分の女房ぐらゐは、落着かせて置くのが當り前のはなしぢやないかね。あたしなんか斯うやつてゐたつて年柄年中、びく/\してゐて、やりたいと思ふことは何んにも出來やしないしさ――これぢや堪らない。一層、別になつた方が好いと思ふばかりだわ。」
「妻に、そんな類ひの不安を與へるやうな男は死んだ方が増しだわね。」
「――生活! ほんとに、生活のことだけがちやんと出來ないやうな男は、何をやつたつて駄目よ。」
「ヴアイタリテイのない人間ほど醜惡なものはないね。」
 二人は左ういふはなしに走ると夢中になつて、止め度もなかつた。隱岐も全く有無もなかつた。胸が震えるだけで、返す言葉などは一つも浮ばないのであつた。その上、二人の者に、あんな弱點を握られてゐることが敵はなかつた。
「あたし達が、こんなにやきもきしてゐるのが解らないのかしら。聞えないのかしら?」
「圖々しいのよ。」
「あんまり、人を馬鹿にして貰ひたくないわ――此方は何時も眞劍なんだから――」
 默つてゐればゐるで、細君は更に業を煮すのであつた。
「馬鹿になんかしちやゐないよ。」
 と彼は怕る/\呟くより他はなかつた。
「あゝ、焦れつたい。男の考へることまで、あたしは心配しなければならないんだもの。」
 彼女は手細工の道具を力一杯投げつけたりした。どうせ、ものになるやうな腕ではなかつたが、畫でも描いたら少しは了見が廣くなるだらうと隱岐は思ひもしたのであるが、まるで駄目だつた。性根が浮調子で、ひがみ強いのだから何をやつたつて中途半端なのだが、彼女は自分の才能までを悉く夫の犧牲と心得てゐた。
「そんな本なんて讀んでゐる振りをしないで、これでも見てゐる方が好いでせうよ――だ。」
 細君は、やをら立ちあがるとデスクの抽出しから二三通の封書を取り出して彼の上に落した。「流れ御通知」といふ書付ばかりであつた。――一圓五十錢、男袴。三圓、男袷。七圓、女帶。四圓、麻雀……」などと、とても判讀の出來ない態の達者な文字が讀みきれぬ程竝んでゐた。



        三
 或晩細君は、落ち着いた氣分で斯んなことを云つた。
「やあちやんに、あたしはまるで戀してゐる見たいだわ。自分が女であるといふことを、忘れるんだもの。」
「同性愛といふのかね?」
 と隱岐も興味を感じた。
「……堪らない言葉だけれどね。」
 細君はあかくなつた。彌生は、廊下を隔てた浴室にゐた。細君は、わざと廊下の燈りを消しに行つて、誰もゐやしないから平氣よ。影を見せてね――などと彌生にさゝやき、硝子戸に映る姿に見惚れてゐた。
「以前には隨分聞いた言葉ぢやないか、この頃は別の言葉になつてゐるかも知れないが。學生時分に經驗があるかね?」
 ――隱岐は、それは自分が凡ゆる點で彼女に不滿足ばかりを與へてゐるので、自然と變質的な傾向に走つたのであらう――と考へ、殊に田舍に移つてからの自分をいろいろと振り返つて見たりした。
「ほんとうは、あたし畫なんか描きたくはなかつたのよ。だましちやつたのさ。」
「……愉快だね。」
「いつまで見てゐても飽きないわ。それよりも、このごろぢや、嫉妬を覺えて、苦しくなつたりするわ。彼女の結婚を考へると、凝つとしてゐられなくなつたりするのさ。……だつて、まあ、あの子の、體の綺麗さ加滅[#「加滅」はママ]と云つたら、それあもう、何とも彼とも、云ひやうもない――ふるひつかずには居られないほどの……」
「ふるひついたことは、あるか?」
「あら、眼をまるくしてら……でも、あたし、いろいろ考へて、いつかのお前のことを無理もないと思つてるわ。」
「……馬鹿だつた!」
「あたしだつて、それより激しい氣持になることがあるんだもの。」
(以下の會話數行省略する。)
「顏はそれほどの美人といふほどのこともないけど、ヘツプバアン見たいな口
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