は息子のかへる日を待つてゐた――といふやうな英語のはやり唄を口吟んでゐた。
彼女等の、素知らぬ氣の、そんな風な樣子にだけは、隱岐はいつも敏感で、それまで彼女等が暮し向きに關する不平をならべてゐたに相違ないのが、想像されるのであつた。はじめからの向方の敵意めいた口調は、無論それより他はなかつた。――隱岐も、もうそれには慣れてゐたから、一切此方から言葉をかけることなしに、憤つとしてあをむけになつて、本を開くだけだつた。
「ひとりで、あたるつもりになつて、あんまり脚を伸しちや厭よ。」
「ほんとうよ、この先生たら、あんな顏をしてゐて仲々油斷がならないのよ。――眠つた振りなんかして、あたしの膝に脚を載つけたりするんだもの。」
彌生は、づけ/\とそんなことを云ふのであつた。隱岐はさつきからむか/\してゐるところだつたので、
「馬鹿ツ、自惚れてやがら……」
と、もう少しで怒鳴りさうになつたが、辛うじて胸をさすつた。
「關はないから、しびれる程、擲つてやれば好いんだよ。」
……何のつもりであんなことを云ふのか……と彼は、女房を横目で睨んだ。細君は不氣嫌の時に限つて、口の端でものを云ひながら決して相手の顏を見なかつた。うつかり彼が、そんな時に憤つた返答がへしでもすると、この頃では、女房よりも、女房の從妹の方が先へ厭味を持ち出すといふ風であつた。
「まさか、あたし、斯んなぢやないと思つたわ……」
彌生は、從姉の謀反心を掻き立てるやうに不滿を竝べ出すのが屡々だつた。時には隱岐も堪えきれなくなつて、強張つた權幕を示す時もあつたが、彌生は一向平氣で、何さ、その顏つきは――などと切れの長い眼眦で凝つと相手の容子を睨めた。彼女は自分の左ういふ表情に餘程の自信を持つてゐるかのやうに、そして、いつも冷たくセヽラ笑つた。隱岐は、客觀的にはたしかに彼女の美しさを認めてゐた。加けに十七・八も歳下の者に――と無氣になりさうな心を壓へた。
「いくら、兄さんの働きがないと云つたつて、故郷なんだもの、ちつとは、もう少し何とかなつてゐると思つたわ。――あゝ、あきれた、あきれた。これぢや、姉さんばかりがほんとうに可愛相だ。」
彌生にそんなことを言はれると、細君は忽ちヒステリの發作を起して
「あたしはもう十年も辛抱してゐる――着るものもなくなつちやつた!」
と自分で自分の言葉に逆上した。
元は隱岐が、保養しなければならない頭の状態に陷つて、とてもおちおちとは都會で小説などは書いて居られなくなつたので、大概の困窮には堪へられるから――と從姉妹達が先に立つて田舍行きをとり決めたのにも係らず、何か、田舍といふものに憧れる輕薄な夢が滿足されぬと見える欝憤が、次第にふくれあがつて、稍ともすれば病人であつた筈の亭主の方が、看護婦共の氣嫌をとらなければならない傾向だつた。
隣りの酒匂《さかわ》村が隱岐の郷里で、はじめほんの一二ヶ月のつもりだつたので、自分の村の知合の農家を借りてゐたが、飯を食つてゐるところが表から見えるから始末が惡いとか、芋畑のふちで雨が降れば傘《からかさ》をさして這入るやうな風呂に浸《つか》れるものか――などと、東京に住んだところで、何うせ長屋風の家より他に知りもしない癖に彼女達は事毎に勿體振つた風を吹かせて、隱岐を痛ませた。
秋のはじめであつた。――昔から隱岐の家と知合ひだつた國府津の塚越といふ漁家の主人が、彼を訪れた時、
「どうせ、これからは空いてゐるんだから、好かつたら使ひませんかね。」
と貸別莊なるものをすゝめた。――町端れの海岸に向つた半洋風の十間もある眞新しい別莊で、部屋部屋には一通の仲々重味ある家具まで配置されてゐた。表側は破風型の門構えで、家のまはりは四方とも充分に庭をとつて、廣々とした芝生だつた。有名な市會議員がかくし女のために建てたのだが、その男が牢に入れられることになつて持ち扱つてゐたのを塚越が買收したのだ左うだつた。
隱岐は、見るまでもなくたぢろいたが、女達は亢奮して
「玄さん、この家《うち》、家賃いくらなのよ、え? え? え?」
などと追求した。――漁家といふよりも今では避暑客を相手に土地などを賣買してゐる塚越は、何處か宿屋の番頭泌みた人を見る眼に肥えてゐるといふ風で、洋裝婦人連の素姓を逸早く見拔いたらしかつた。子供の頃隱岐は、祖父や祖母に伴はれて東京へ赴く時、電車を降りるといつも、先づ玄八郎の家に寄つて小半日も遊んだことを覺えてゐる。今の玄八郎は同名の先代の長男で、たしか隱岐よりも二つ三つ歳上だつた。先代の時には二三艘の小舟とわづかばかりの蜜柑山を持つた半漁半農だつたが、今の玄八は二十代に鰤網で大儲けをして、傾きかけた家産を數倍に増したさうである。貸別莊なども數軒持つてゐて、近頃では下曾我通ひの乘合自動車や、小田原の驛の附
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