ゞ一言、眠いのだ――と答へたのみ。そして、深夜になると突然凄まじい家鳴りが起つたので、宿の主がその寝室に来て見ると、彼は寝台の傍らに俯向に伏して、悪魔のために絞殺されてゐた。)
 ――さよなら。」
 と私は慌てゝ書いた手紙の封をしてしまつた。私はこの手紙をもつと続けたかつたのであるが、宇宙の神秘に目眩んで昏倒しさうになつたからである。私は、論理的抽象観念の超感覚圏から、悪魔に対する贖罪金を支払つて、精神生活上の最下級の安住地であるべき可見世界に渡りをつけて再び矛盾と闘ふべき情熱に欠けてゐた。私は、私の恩師がクラシカル・ヘレニズムの極美を讚嘆して、
「あれらの自己に対する信頼、現在の可見世界に於ける精神的創造の活動、祖先としての神々への純粋なる崇拝、芸術品としてのみの神々の讚嘆、力強き運命に対する帰依」――等の讚嘆詞に於ける神々を、鬼神《デモーネン》と訂正して、自身の蓋然思想《プロバビリスム》と争はずには居られなかつた。私は、私のファウスタスを再生せしむる為にはセラピスやイシスの秘法を受得して、彼を絞殺した文明宗教と戦ひながら、怪奇《バロク》な、そして華麗なる混沌芸術の地獄へ導かしめなければならなかつた。
「何うなすつたの、独りで、お酔ひになつたの?」
 ヘレンが私の肩に凭りかゝつて訊ねるのであつた。彼女は、この酒場を訪れる多くのアグリタス達の「ジヤステイナ」である美しい酒注娘である。
「俺は、絶望の盃をもう一杯重ねる。そして、お前は、あのオルガンの前に坐つて、マルシアス河の悲歌を弾いて呉れ。」
「死んではいけないよ。――向方の隅にゐるお客様が、さつきからあなたの様子を見て、あれは何処の役者なのか、余程六つかしい役でも配《ふ》られたと見えて、可愛想に、酒場に来てまでも稽古に夢中になつてゐる。何を、何時、何処で演《や》るのか訊いて来て呉れ――ですつてさ。……それはさうと妾は擽つたくつて仕方がない、あのグロキシニアの花鉢の蔭からモノクルをつけて凝つと此方を視詰めてゐる生真面目さうなヴアンダイキの※[#「髟/(冂<はみ出た横棒二本)」、第4水準2−93−20]紳士が居るでせう、あの大学教授つたらお酒は一杯も飲めないのに毎晩妾のために此処に来て、何とかして私の隙を見はからつては、妾の首筋から幾粒かの南京豆を妾の背中の中へ落し込んで、それが悉く妾の裾から床に滾れ落ちるのを見とゞ
前へ 次へ
全10ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング