そばからぽろぽろとくづれて、またゝく間にあとかたを失つた。
 私は、モデル椅子にぼんやり腰かけて暮れかゝつた外を眺めた。――あの婦人の映像が、はつきりと頭にのこつてゐる。
「すつかり駄目になつてしまつたんだつて!」
 私の後を追つて来た妻であつた。――私は、思はず飛びあがる程吃驚した。
「まあ、斯んなに!」
 妻は、くづれ落ちた土を見て痛ましさうに呟いた。
「…………」
 私は、妻に堪らない後ろ暗さを覚えるので、さつきの事を告げようと思つたが、それにしても、単に、あれだけのことを、何う云ふ術もないし、また、あの婦人の行動を積極的のものとのみ見て告げるのは、それも何とはなしに己れの卑怯を自分に見せつけるやうでもあり――だから、何も、あらたまつて云ふべきほどの事でもなからう、と、思ひ直したが、何うも胸に異様なときめきが後から後から津浪となつておし寄せて来るのに敵はなかつた。
「何うしたの、さつぱり元気がないぢやないの。がつかりしちやつたの?」
「さうぢやないが――。明日から出直して、この仕事にかゝるんだから、早目に来るとして、今日はこのまゝ帰らうかな。」
 小屋からは、また合唱が響いてゐた。そして、さつきと同じやうに女の鳥に似たそぷらの[#「そぷらの」に傍点]もまじつてゐた。
 私は、その明朗気な婦人の歌声に反感に似た軽い嫉妬を覚えた。
「あの方、名刺を下すつたわ。」
 妻が小型の名刺を差し示したので、見ると「小倉りら子」と誌してあつた。
「絵を勉強してゐるんですつて――」
「…………」
「そしてね、絵の次に好きなのがウヰスキイなんだつて。」
 妻は、まばたきもしないであらぬ一方ばかりを凝つと眺めてゐる私に、そんなことをはなしかけた。

     四

 ある日、私達は岡のアトリヱで酒を飲みはぢめて、近頃になく私は泥酔した。そして、まつたく前後不覚であつた。あまり多勢だつたせゐか、相手の顔すら悉く曖昧だつた。
 朝眼を醒して見ると、何処だか得体が知れなかつたが私は、しやれたやうな部屋で、花美な蒲団に寝てゐるのであつた。
 傍らを見ると、もう一つ並んだ同じやうな蒲団の中から、頭もろとも潜り込んでゐるので誰やらわかりもしなかつたが、ほんとうに雷のやうなと形容したい猛烈な鼾声が、ごろごろと鳴つてゐた。……その唸りは、さはつて見るのは薄気味悪いくらひに凄まぢく大波を打つてゐるの
前へ 次へ
全16ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング