はう、注意さへすれば負ける筈はない。――と私は思つたのだ。
「よしツ! 俺は兎も角三千円のもとでがあるんだからな、実に三千円の貸しが……」
守吉は腕まくりをして胡坐を組んだ。
「さう三千円三千円と、そのことばかり云ふなよ。」
私は割合に真面目な顔で呟いた。
ところが私は、二番、三番と忽ちのうちに敗北した。余程注意の念を凝らしてゐるつもりでも、つい私は、ふと他の妄想に走つたり、のべつにまくしたてる守吉の駄弁に煩はされたりして、くだらぬところでいち時に三つもはさまれてしまふのであつた。
「五千円――あゝ、吾輩は終ひに五千円の金持となつたか――愉快愉快!」
「もう一番!」
私は思はず膝を乗り出して挑戦した。
「飛んで灯に入る夏の虫――とは手前えのことだ。さあ、寄れ、寄らば一刀両断で……」
別段彼は私を罵るわけではなく、口癖となつてゐる芝居の科白を滑達にまくしたてるのだが、次第に私は、それらの科白までが小癪に触つて堪らなくなつた。どうかして私は、二挺ハサミの追撃でも喰はせて一と泡吹かせてやりたいものだと、二手も三手も前から遠囲みの陣形で攻撃にかゝると、彼は忽ち私の魂胆を見破つて、
「斯う来る、あゝ来る――か、ふゝん、太え了見だ。この、どめくらの田舎つぺが!」
あはや私の鉾先が、もう一手で敵の陣中目がけて両天秤の凱歌をあげさうになる途端、私は快哉の叫びを挙げんものとわくわくしてゐるのだが、つい彼の悪態が耳について胸が震へ出すのだ。
「左う来りや、斯う逃げて――」
彼は潜航艇の真似などをして、飛鳥の如く駒を翻すので、私は唇を噛んで追跡にかゝつてゐるうちに、
「さあ、何うだ、思ひ知つたか!」
彼は、突然げらげらと笑ひ出すのだ。驚いて私は陣形を見直すと、追撃にばかり熱中してゐた私の駒は、見事敵の逆手に陥つて立往生の両天秤にかゝつてゐるのだ。
「わつはつは……痴けの猿め、大臼にしかれて成仏さつしやれ。」
「……チツ、畜生! 口惜しいな!」
私の胸と肚はふいごのやうに伸縮して、熱気が口や鼻腔から激しく噴出した。負債は、見る間に火の車に煽られて一万八千円と飛んだ。
「一万円で行かう。」
私は非常にいら/\としてうめいた。
「あの……ぢや、守公のところへ行つてゐますよ。」
私が小説の読後感をのべる約束なのに、さつぱり動かうともしなくなつたので進藤は不安な気色を浮べながら枝原を促して立ち去つた。これまでに私は進藤の小説を幾篇か読み、相当の敬意を持つてゐたが、今日の「大きな手」と題する短篇は近来の快作だつた。私は、何んな類ひの賞讃辞を与へたら好からうか――と、親しい間柄の進藤の場合であるだけに寧ろ白面の推賞が息苦しかつた。愛読に値する二人の新しい作家を同時に友達に得られるなどとは私にとつては全く稀有の現象だつたが、大分前に私は枝原の或る小篇を亦、あまり口を極めて推賞しすぎたゝめに、彼は近頃嘗ての私の賞讃辞をおそれて、創作気分に頓坐を来してゐた。その枝原の「危禍」を思ひ合せても、今日の進藤に対して私は苦しい注意を抱かねばならぬと思つたのだ。それにしても進藤の「大きな手」は、恰も私はガンと頭を打たれて痴夢を醒された態の快作で、作者の顔をうかがふすら息苦しかつた。
「一万八千円の財産から、一万円を張り込むのは少々山カンだが、まあ好いだらう。」
守吉は、陶然と眼をかすめて意地悪るらしく頤を撫でたりした。
「一万円宛で、もう二度やるんだぞ。」
考へて見ると私は、その時三千円の支払ひ能力すら皆無だつたので、一挙にして二万の金を攫得してしまはうと念じた。
やがて合戦は、黒雲をはらんでじり/\と開始された。敵も左うであつたが、私も今度こそはじつくりと下肚に力をこめて、爬行的におして行く駒が目的の場所に息を休めても即座に指先を離さぬ留意振りで、両眼を皿と擬した。私は水の底を潜ると同様に、一つの駒が行手に収つて、漸く指先を離すまで、真実呼吸を断つた。そして深い吐息を衝きながら凝つと敵の戦略を見守つた。凡そ三十秒乃至は一分毎に、恰も空気枕の栓を抜いた刹那の如き放出音が、敵と味方の堅い唇から、交互に盤面にあたつてゐた。――余儀なく互ひの軍兵は、いつか点々と隊をそろへて盤の中央に斜めとなつて二列に対陣して、進む道を失つた。
「お前の番だよ。」
憤つとして私は、せきたてた。守吉は、隅の駒を震へる指先きで徐ろに退けたが、やがて、
「しめたツ!」
と力一杯叫ぶや、突然立あがつて、夢中で架空の陣太鼓を打つた。
「ど、どどん、ど、どどん、どどんどどんどどん!」
狂へるが如き凱歌であつた。「二万八千円、二万八千円、わあツ!……」
私には未だはつきりと意味が解らないので、ともかくその胸を突いて畏る畏る一歩を踏み出すと、すつかり落つき払つてしまつた敵の将軍は、太いやうなつくり声で、
「気の毒だけれど、これは駄目だ――まるで、ばく然たるものぢやないか……」
と、にやにやしながら、すいと駒を横に寄せると私の先手は、綺麗にはさまれてゐるのである。私は、ぎくりとして階段型の陣容を改めて鳥瞰して見ると、その順で行けば、次々と一つづつ私の兵士は滅亡して行くより他はない悲惨な状態だつた。
「ちよい、ちよい――と!」
守吉は、はやし立てながら、まつたく、ちよいちよいと難なく私の軍兵は次々に馘られる始末だつた。
「ばんざあい! 二万八千円だツ!」
「…………」
私の首は、ごろりと畳に転げてしまつた。妙なもので、斯う執拗に攻めたてられると、その莫大な金額がそのまゝ夢ともつかずに犇々と私を怯やかせた。さうかと思ふと私は、債権者としての田舎に於ける自分の名前を今更のやうに思ひ出したり、私の山や田畑をめぐつて幾人もの強慾者連が、血で血を洗ふ暗闘を巻き起した光景などが、虚空のスクリインにまざまざと展開されたりした。
「さあ、この始末は何うして呉れますかね、もしもし、おさむらひ、たしかな返事を伺はせて貰ひてえものですな。」
守吉の科白は、尻あがりに物凄気な殺気を含んで、或ひは毒々しい皮肉の口吻を突き出して、
「これは、何うも恰でばく然たるものだ。」
と、厳かに不平の唸りを挙げた。その時私は、その守吉が唸る韻を踏んでゐる見たいな言葉が、近頃私が酔つた時の口癖であるのに私は気づいた。この口癖の原因を私は探つて見ると、たしかにそれは田舎の財政上の騒動の頃に端を発してゐると見られた。私はその頃、そんな呟きより他に言葉がなくて、やけ酒をあほりながら憤懣を充してゐたと見えるのだ。それが、また、すつかり私の口癖になつてしまつて、今でも私は稍ともすればその言葉を呟くのが習慣だつた。いつの間にか守吉は、そんな私の口癖を聞き覚えたと見える。声色ばかりでなしに、私がそれを唸る場合の眼の据ゑ方から口の歪めなりや、首の振り具合までも守吉は巧みに模倣してゐたが、今は有頂点のあまり自身が、当のモデルの前で、モデルのしぐさを真似てゐるといふことさへ気づかぬ風で、唸つたかと思ふと、ぽん/\と額を叩いてやにさがつたり、果ては、物凄いひよつとこ口をにゆつとばかりに私の鼻先へ突き出すが如き示威の有様だつた。
「おさむらひ――まるで漠然たる……」
「…………」
「あツ、痛てえツ、打つたな!」
守吉は仰天して飛びのくと、頭をさすりながら、しかし私が真面目であるか何うかを見定めるやうに、おどけた眼つきで此方を見あげた。
私は、吾に返つて、はつと後悔したが、もうとり返しがつかぬ気がしたので、追ひかぶせて、
「喋舌り過ぎるぞ、手前えは――」
と威猛高になつてしまつた。守吉は突然私の威勢に驚いて、唇の色を変へた。同時に彼は私の卑怯な心底を見抜いたと思ひ違へて、瞋恚の眼を光らせながら、
「打ちやあがつた。そんなに口惜しいか――浪人野郎!」
借金よこせ――彼はあらん限りの声で絶叫すると一緒に、転げるやうに梯子段を駆け降りた。――その誤解が二重に私を逆上させた。私は、鷲掴みにして、口をおさへてしまはうとして、飛びかゝつたが、思はず脚を滑らすと、家鳴りをたてゝ梯子段を滑り落ちた。幸ひに、尻を落して脚を先に滑つたので頭を打つ危禍を逃れたが、その物音で階下の人達が飛び出す騒ぎになつた。
「ざまあ見やがれ。」
守吉は崖の上から覗きこんで、
「借金よこせ/\!」
とばかりに調子をとつて連呼した。
三
守吉の騒ぎを聞いて、空地にあつまつてゐた大高源吾や堀部安兵衛や大石力彌や、その他五六名の、各自に飛道具を携へたいくさ人達が駈けつけて来た。
「何うしたんだい、守ちやん、早く仕度をして来ないのかい。」
彼等は、花火の用意をして、星月夜の今宵、壮烈な夜襲を試みる計画らしかつた。――仲間のものにとり巻かれた守吉が、崖下に立つてゐる私をゆびさして、説明をはじめたらしいので、私は大きにあわてゝ、
「違ふぞ/\、待つて呉れ、守吉の感違ひなんだ。」
手を振りながら近づいて行くと、彼等は一斉に軽い戦闘気分を漂はせて、私の左右に身構へた。――私は、決して、勝負の金を払はぬといふのではない、守吉の饒舌が煩に堪へぬので、憤つてしまつたのだ……。
「さあ、一緒に伴いて来い。」
と云つた。
私は、花屋の主人を使ひに頼んで、うちから冬のオーバーコートを持ち出して、質屋へ走つて貰つた。自分が、その場をしばらくの間でも立つたら、債権者が更に不安の眼を輝かせさうだつたから、その監視の許に人質となつたのである。
私が主人から渡された九万円の中から守吉に三万円を渡すと、彼は急にてれ臭さうな嗤ひを浮べて、
「小父さん、憤つてる見たいだな――とつても好いかえ?」
など逡巡してゐたが、やがて、一枚宛銀貨を数へながら、
「今、二千円の釣を持つて来るからね。」
「釣りなんて、いらないよ。」
「いよう、豪勢だな――えゝ毎度有りがたう。」
守吉は同志を促して引きあげて行つた。
枝原と進藤が定めし待ち佗びてゐることだらうと思ふと私は、急に、夢から醒めたやうに立ちあがつたが、長い時間を斯んなことで過してしまつたことが、言ひわけの仕ようもなく気恥しかつた。――秋らしい澄明な空は、いつの間にかすつかり暮れて森の上にはきらびやかなアンドロメダ星雲が瞬いて、牡牛星に導かれた「七人の花嫁」が微かに流星の彼方に光りはじめてゐた。それはさうと、流れ星が恰で降るやうだ――と私は、驚いて眼を視張つたら、それは集合の合図に挙げられる上の空地からの花火であつた。いつもは、たゞ音のするだけの花火であつたが、今日の空には、五色の玉や、滝のやうな流星が、止め度もなく打ち挙げられてゐた。それらの花火を私は、秋空の星雲と見紛ふたらしい。未だ未だ「七人の花嫁」の現れる候でもないのに、赤、青、黄と、あまりに眼ぢかく花嫁の行列が明滅するかと思へば、滝のやうに降りかゝる流星花火の翼が蝎となつて鋏を伸ばし、天秤の座に傾くと、狐や猟犬や蛇遣ひが雪崩れをうつて花嫁の後を追ひかけるのだ。そして、追ひ詰められた牡牛は、恰もさつき守吉の鋏にかかつて天秤座に衝突する私の軍兵を思はせて、大空に踊りながら見る間に馘られた。その間を見はからつて、太鼓が、カンカンと鳴り渡つた。新しい太鼓の音であることは直ぐと私にも悟られた。
太鼓打ちをとりまいた七八人の浪士が、手に手に流星花火の筒をささげて、間断もなく挙げつづけてゐたのであるから、崖下の私に星雲の怪を想像させたのも無理もない。彼等は、太鼓を打ち烽火をあげて同志を糾合してゐるのであつた。
そして、その傍らを脚速く素通りしようとする私の姿を認めるや――ばんざあい! といふ凱歌といつしよに、私の脚並みに合せて太鼓が鳴り出し、花火の吹雪が目眩くばかりに降りかゝつた。
「ああ、面白い面白い!」
私は、きらびやかな凱歌に送られて恍惚としながら軍勢の間を通り抜けて、銅像の裏へ降り、山門を抜けた。
見ると真向きの居酒屋の障子に、進藤と枝原のシルエツトが鮮かに映つて、二人は大分に酩酊したらしく、互に腕を突き出したり、胸を張つたりして、会話のやりとりにさかんであるらし
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