夜、裏庭に忍び出て、松の木にそれを吊して晴々と闘ひを演じたこともあつた。円盤や投槍や剣術の道具を買つたのもその頃だつた。だがそのうちのどれも、一週間とは続かなかつた。彼は、相手を求める熱心さに欠けてゐたし、独りぽつちの馬鹿/\しい運動には直ぐにテレ臭さを覚えて了つたから。
「東京住ひは苦しいことだな、それぢや始終袴をはいた気でゐなければならないんだね。」
「田舎だつてほんとうは、あなたのやうな不行儀な人は……」
「よしツ、もう決心した。これから俺は東京市民にならなければならないんだからね、浮《う》か/\してもゐられまい。」彼は、生真面目な心でさう云つた。周子に非難されてゐる事実ばかりでなく、広く自分の生活にそんな風な楔を打たなければならない気がした。
その晩も滝野は、遅くまで帰らなかつた。
周子は、子供を寝かしつけてから、灯火を低く降して習字をしてゐた。あたりは森閑として、時たまけたゝましい響きをたてゝ走る自働車の音が消ゆると、何処からともなくもう秋の虫の声がした。
「斯う遅いんぢや、さぞかしまた酔つて帰つて来ることだらう。」
周子は、そんな心配をしながら、健腕直筆の心をこめて習字してゐた。酒を飲む他に何の能もなく、余技に親しまうとする澄んだ精進の心のない野卑な夫に、一層習字をすることをすゝめようかしら、などゝ思つた。
「ぢや、さよならとしようかア、まア好いだらう、僕の処でもう少し飲まう/\。」
突然往来から、怒鳴るやうに大きく濁つた滝野の声が響いた。周子は、思はずハツと胸を衝かれて筆を置いた。(体の小さい奴に限つて、酔ひでもすると、とてつもなく大きな声を出したがるものだ、豪勢振つて――)周子はそんなに思ふと気持の悪い可笑しさと、唾でも吐き度い程の憎くさを感じた。
「もう君、遅いよ/\。」
その声は、遠慮深く、迷惑さうに低いのである。
「僕の家なら好いだらう、借りてる以上は俺の自由だ。」
何処かで追ひ立てられて来たんだな――と周子は思つた。時計を見ると、もう二時に間もない。(借りてる以上――とは何たる馬鹿だらう、卑しい法律書生でも云ひさうなことだ、法律書生なら安眠妨害といふ罪を知つてゐる、小田原の漁師のやうだ。)周子は、カツとして机を叩いた。
「止さうよ/\。」
「もう少し芸術の話を続けよう。」
(チヨツ/\!)周子は強く舌を鳴した。
「芸術の話ならしようか。」
「そして、歌でもうたはうか。」
「歌は御免だ。」
(あたしばかりぢやない、誰だつて参つてゐるんだ。)周子はさう思ふと、ちよつとその[#「その」に傍点]人も入つて来れば好いがなと、思つた。
「さア行かう/\、担いでツてやらうか。」
「担げるものか。」
「担げるとも。」
「ぢや担いで見ろ。」
「よし来た。――何でエこんなもの、……よウいこら! よんやこら。」
ガタ/\と具合の悪い戸を開けたり、桓根に突き当ツたりしながら、滝野は周子の見知らない客を伴れて入つて来た。滝野の胸は、裸体に近い程はだけてゐた。
周子は、丁寧に客に挨拶して、迷惑を詫びた。いつも行き来してゐる酒飲みの友達ならさうもしなかつたが、その日の客は余り酒にも酔つてゐないらしく、身だしなみの好い洋服を着て、胸にはボヘミアンネクタイを房々と結んでゐた。話の様子で察すると、滝野の学生時分の知人らしく、そして有名な詩人であるらしかつた。
「あゝ、夜は更けた、もう間もなく秋だ。」
食卓の前に坐ると詩人は、溜息のやうな嘆息を洩して、長い髪の毛を掻きあげた。周子は沁々と詩人の様子を打ち眺めて、いゝな[#「いゝな」に傍点]! と思つた。
「久し振りに会つた滝野に、今日は酷い目にあはされました。」
「あなたは、そんなにお酒なんてめしあがれないんでせう。」
「えゝ、甘い西洋酒位いのものです、夜仕事をする時には、上等のウヰスキイを少量、二三滴紅茶に滴します、さうすると繊細な神経が青白く輝きます。」
「まア、好いですわね。」
「僕は、夜といふものに対して不思議な感覚をもつてゐます。」
「――」周子は、解るといふ風に点頭いた。解らないのだが、さうしないと軽蔑されるやうな惧れを感じたから。
「滝野、君も古くから昼と夜とを転換してゐる生活を持つてゐるらしいが、君はどうだ、君は、昼と夜と、どつちの世界にほんとうの自分自身の姿を発見する?」
「僕は――」滝野は突拍子もない声を挙げたが、そのまゝグッグッと喉を鳴して口ごもつた。
(態ア見やがれ)周子はそんな気がした。そして滝野は、ごまかしでもするやうに盃の手を早めながら、周子を顧みて、
「おい、酒を早く、酒を早く――。何だ斯んな処へ出しやばつて――」と叱つた。
「芸術の話をしようといふから、寄つたんだよ。」
「僕に出来ることは何だらう。」滝野はまたもごまかすやうに話を避けて「斯
前へ
次へ
全9ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング