。三下りを歌ひどゞいつを歌つた。滝野も一つ位ゐやりたかつたが、何も知らなかつた。それから彼等は夫々得意の隠し芸を公開した。ある男は清元の喉を聞かせ、次の男は朗々たる長唄を吟じた。大物が済むと、小唄をやる者もあり端唄をやる者もあり、また六ツヶ敷い唄を一つやり次にはワザと粗野を衒つて、終りのところでストヽンといふ結びのあるハヤリ唄を、反つて好い声で高唱したり、一寸立上つて雛妓と一処にアヤメ踊りを一節踊つたり、男二人立ち上つて、何か支那のことらしい滑稽な身振りで手真似の供ふ対話風の唄をやつたりした。
「滝野君はさつきから見物してゐるばかりで何もやらんな。」一寸芸事が止絶れた時向ふ側に坐つて、景気好気に赤くなつてゐる男が彼を指摘した。
「ウツ。」滝野の動悸は、異様に高まつた。
「斯うざつくばらんになつてから何もやらんといふのは厭味だぜ。」
 滝野の傍に坐つてゐる大変に美しい芸妓が、
「こちら、どうなすつたの!」と云つてポンと彼の肩を叩くと、その次に居並んでゐる稍年取つた妓《おんな》が、
「能ある鷹は爪をかくすつてね。」と軽く笑ひ、するとまた、向ひ側の赤ツ面が、その言葉の追句らしいキタナイ洒落を続けて、
「さては滝野君、誰かに思し召しがあるらしいぞ。」などゝ大きな口を開いて笑つた。一同はやんやと叫んで手を打つた。
「濡れ衣を着せられては、出さないわけにはいくまいぜ。」
「あちら、如何、糸の調子はこれでよござんすか。」
「待つてましたア。」
「ぢや、磯ぶしでもおやりなさいよ。」
「ノー、ノー。」
 そんな声が彼の周囲を矢のやうに取り囲いてゐた。発散しない酔が、彼の体中を重苦しく馳け回つた。彼の、頭は突然カツと逆上したかと思ふと、籠つてゐた酔がパツと飛び散る如くに眼が眩んだ。
「よしツ、ぢや、やるぞ。」彼は、さう云つて棒のやうに突ツたつた。
「いよう、奥の手/\。」「師匠は何処だ。」
「ジヤツパンダンス、待つてました。」「お囃しを頼みまアす。」そんな声が絶れ/\に彼の耳を打つた。それと共に芸妓達は一勢に撥を取りあげて、寄席などで彼の聞き覚えのある手品師や丸一の場合に用はれるらしい、賑やかではあるが間のびのした調子の囃子が、節面白く合奏された。彼は、思はずふら/\と座敷の真ン中へ進み出た。
 彼は、暫く其処に立ち止つた後に――つかつかと床柱の前へ進み出ると、
「やツ!」と叫んで、いきなり柱のてつぺんへ飛びついた。……しつかりと、出来るだけ体を小さくして、しがみついた。そして眼を瞑つて、左手で軽く鼻をつまんで、
「ミーン、ミーン、ミーン。」と高らかに鳴いた。「ミーン、ミンミン、ミーン。」
 一寸静まつた大広間中に、ミンミン蝉の鳴き音が、夏の真昼の静けさを思はせて、麗朗とこだま[#「こだま」に傍点]した。
 だが次の瞬間、大広間は嘲笑と罵りに満ち溢れた。「馬鹿にしてゐやアがらア。」「彼奴は始めツから浮かぬ顔をしてゐた、折角の会にケチを附けようと思つてゐるんだ。」「彼奴はさつきから吾々の座興を眺めてにや/\してゐたが、さては馬鹿にしてゐたに違ひない。」「失敬な奴だ、ワセダの芋書生ツ。」「何てイケ好かない真似をする人でせう。」「引ずり降して畳んぢめ!」
 木枝の影に蝉が一匹止つてゐる。夏を惜んで切りに鳴き続けた――悪気なんて毛頭あつた筈はない、滝野はたゞさういふ閑寂な風景を描出したつもりなのだ。懸命になつて一幅の水彩画を描き、点景として蝉を添へたのだ。
 だが彼は、もう少しの間見物人が静かだつたら――そこに悪童が現れて、袋竿で憐れな蝉を捕獲しようと忍び寄る風情を、鳴き続けてゐる蝉の細い思ひ入れで現し、悪童の接近を意識した蝉は、未だ/\大丈夫だといふ風に歌ひながら静かに梢を回り、いよ/\袋が近付いた瞬間に、(どつこい、さうはゆかない、あばよ。)とばかりに、尿を放つて空中に舞ひ上る――ところでこの演技を終らす考へだつたが、――そんなことをしないで好かつたと思つて秘かに胸を撫で降した。

 周子は、一日も早く郊外に家を探さなければならないと思つた。郊外に家を定めたら、夫は夫、自分は自分で、常々憧れてゐる文化的生活を営まうなどゝ思つた。
「二階があなたの部屋で、階下《した》が完全に私の部屋ですよ。私が何んな風に飾らうと口を出さないで下さい、あなたの迷惑にさへならなければいゝでせう。」
「それも好いだらう。」
 滝野は、二日酔の重い頭で物憂気に答へた。夕陽が部屋の真中まで射し込んでゐた。滝野は上向けに寝転んで天井を眺め、細君は伏向いて編物をしてゐた。
「郊外の家でなら少しは、遅くまでお酒を飲んでも関ひませんわ。」
「お酒はもう止さうかと思つてゐるんだ。」
 細君は嬉し気に、だが眼を丸くして、
「そして、どうするの?」と訊ねた。
「ラツパを始めようかと思つてゐる
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