のわくわくするやうな孤獨の壯絶感を覺えるのであつた。そんな寂しさから、獨歩作「酒中日記」の主人公の名前を思ひ浮べたものらしい。
その岩の、わたしの足もとの水は二間ぐらゐの幅で磯の中に深く流れこんでゐる入江であつた。向ふ側の水際に小さな鴎が一羽やすんでゐたが、さつきからわたしはゆうべのことなどをおもひ出して、あゝツ/\!と大きな溜息を放つたり、鴉のやうなわらひ聲を擧げて、石など水の上に投げたのに鴎は一向に動ずる氣色もなく、凝つとまどろんでゐるのであつた。
どうしたのか知ら――とわたしはいぶかつて、膝までもない水を渉つて行つた。澄みとほつた水はゆたかに温むで、蹠に感じる岩肌が温泉の底のやうであつた。――腕を伸して抱きあげたが、鳥は眼を閉ぢて、驚く樣子もなく、わたしのふところに移つた。大方、夕暮時の燈台のひかりに狂ひ來つて、火窓に衝突し、翼の關節を挫いたに相違ない――とわたしは憐れむで、靜かに翼の工合を驗べると、右の翼だけは扇のやうに一杯にひろげて、わたしの胸や顏をたゝいたが、一方の翼は震へるばかりで開かなかつた。水に浮べて見ると、まつすぐに浮いたが、走らうともしなかつた。
わたしは、三崎に借りてある自分の部屋に、飛べる日まで飼つて置かうとおもつた。わたしは微かな亢奮を覺えてゐた。やはり、いつもひとりの部屋といふものは、好きこのんで心がらとはいふものゝ、とりとめもないものであり、傷ついた鳥に宿を與へるのかとおもふと、餘程嬉しくやがて、この鳥が翼も癒えて、獨酌家の窓から飛び立つて行つた後のことまでが想像された。――油壺の水族館へ赴くと、わたしはいつも二尺四方ぐらゐの小さな水槽のなかで、わたしの小指ほどに、あんなに小さいくせに、フイゴの筒のやうに憂欝さうに口を突《とが》らせ、くるりと尻尾を卷いて偉さうに、海藻の間を浮いたり沈んだりしてゐる、何だかそれにしても餘り姿が小さくてお氣の毒な樣な、あの奇天烈な|海ノ馬《タツノオトシゴ》と睨めくらべをするのが習ひであつたが、いまから既にこの鳥が飛び去つて行く後をおもふと、四角の部屋のひとりの自分の顏つきが、見る間に“Sea horse”のやうに偉さうになつて來さうだつた。雛鳥の皷動はわたしの胸にチクタクと鳴り、島の眞晝は底拔けの靜寂さに、明る過ぎるひかりばかりがさんさんたる雨であつた。
「大層なものを獲つたね。生きてゐるぢやないか……」
渡し場の船頭がなれ/\しく言葉をかけ、どうやら前の晩の酒場の友らしいのであるが、わたしには一向に見覺えもないのであつた。浚渫船のクレインの響きが港一杯に鳴り渡り、目醒ましい水煙をあげてゐた。彼は、おそらく前の晩の容子と、あまり違つて白々し氣なわたしを妙に感じたらしく、折角はなしかけた腰を折られて、水煙の方へ眼を反らせながら、せつせつと艪をおしてゐた。鴎は、わたしのふところから首を出して、空を見あげてゐた。――わたしは、三崎の宿の、親戚に、島の夜を過ごすのが常だつた。大きな網や舟を持つてゐる漁家で、どんなにわたしが困つても、宿賃をとらうとしなかつた。そのくせわたしは、醉ふと遠慮もなくなつて、また來たぞ/\!などと、おそらくタツノオトシゴが口を利いたならば、そんな聲でゝもあるかのやうな、ぶつきら棒な、横柄な調子で鳴り込むのであつたが、その聲の強さうなのに似合はず、見るからにわたしの姿は相撲が弱さうであるためか、反感などを抱くけしきもなく、專ら珍客としてもてなすのであつた。
どうやらわたしは、島の春に有頂天であるかも知れぬのであつたが、白々と醒めると海原の蒼さが眼にも滲み、とう/\半島の出つ鼻までも流れ住んで最早地上の空想の種も盡き、沖を走る舟の上にでも夢を乘せるより他には灯影もまたゝかぬかといふやうなおもひに憑かれて、燈台が光り出す時刻にもなるとふら/\と渡し舟に乘つて、島へ渡る夜が度重なつてゐた。
「ところが、たうとう鳥をつかまへたといふわけさ。當分は、この鳥の介抱で、夜の眼も眠らないかも知れないんだよ。」
こんどはわたしが、船頭にはなしかけたのであつた。彼は、聞えぬ樣子であつたが、やがて、
「夏まで三崎に居るつもりかね?」
と訊ねたりした。
「多分、居ないだらう……」
「夏になると、着物をあたまにしばりつけて、男どもは舟がなくなると、こゝの間ぐらいは泳いで渡るんだよ。」
そんな事をはなしてゐるうちに、間もなく渡し舟は三崎の岸に着きさうになつたので、わたしは急に思ひだして、ふところをさぐつたのであつたが、ふところのものは煙草も手帳も双眼鏡も、その他のものもみんな紛失してゐて、鴎が眠つてゐるだけだつた。手帳と云つても、到底他人に見せられぬたぐひの歌のやうなものが誌してあるだけであるし、双眼鏡といふと少々物々しいが、新らしいけれど値段さへ忘れてゐる
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