一人の友達もなかつた。碌々学校へも通はず、多く下宿の二階に転々《ごろ/\》して暮しながら休暇を待ち構へて帰るのだつた。
 夜になつてから純吉は、清一を誘つて酒を飲みに出かけようかと思つたが、口先だけの遊蕩児である身の程を顧みて、うつかりするとそんな処で清一に出し抜かれる怖れを慮つたから、到頭終ひまで、出かけようとは口に出さなかつた。
「一二年前の方が面白かつたね。」
 清一がさういつたのは、みつ子が居た頃といふ意味だつた。
「そんなこともないさ。思ひ出すといふ感傷は、何に依らず愉快に思はれるものだがね、さういつて、現在と過去とを思ひ比べてゐることは愚かなことだ。」純吉はいかにも自分は理性の勝つた者であるといふ風に、そして現在だつて面白いことがあるといふ意味を仄かに知らせるつもりだつた。清一は純吉に好意を示すつもりで云つたのだ。それを純吉が邪まに解釈したのでイヽ加減な笑ひでその場を紛らせた。……さうはいつたものゝ純吉の心は極めてもろい感傷に陥つて、切《しき》りにうとうとと過ぎた日の追想に耽つてゐた。
「そりやアさうだね。」清一はきまり悪さうに呟いた。
「だが……」純吉は云ひかけて息の塞《つま》る思ひがした。

[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]

 雨降れ、雨降れ――と純吉は希つたが、日毎に炎暑が増すばかりだつた。朝からギラギラと陽の輝く日ばかりが続いた。だが純吉は毎日欠かさず通つてゐた海を、三日ばかり続けて休んだ。
 海の連中と他愛もなく笑ひ戯れることは厭でもなかつたが、それも考へると堪らなく退屈な気もした。心にもない快活を振舞ふことが一層自分を醜くする気がした。といつて彼は他人の前では、それを振舞はなければ、自分の愚図さ加減に堪らなく肚が立つのだつた。結局自分といふ人格は安価なピエロオである以外には何もない狡猾な昆虫のやうな人間である――そんなことを思つて彼は憂鬱になつてゐた。だから恋人は忽ち現れても忽ち此方を振り棄てゝ……あゝ、だが若き日に恋のないといふことは何たる悲惨な光景だらう……そんなことで彼は悶々と暑い日を書斎に寝そべつて打ち過した。そして思ふことは悉く下品な恥しいことばかりだつた。彼は、消えてなくなりたい思ひだつた。
 どんなに行儀悪くふんぞり反つてゐてもやり切れない暑さで、純吉の気持はラッパのやうに筒抜けた。
 彼はタオルをふところにおし込んでぼんやり海辺へやつて来た。海の連中は相変らず出揃つてゐて、もう二三回泳いで来た後らしく皆なまぐろ[#「まぐろ」に傍点]のやうに砂に埋れて、野蛮な雑談に花を咲かせてゐるところだつた。
「おい/\、死んだと思つた純公が再び現れたぜ、不景気な面をして――」野島といふ柔道二段の法科大学生は、純吉を見あげて朗かに笑つた。
「あいつまた恋愛でも始めやがつたのぢやないかしら。」さういつて野島と一処に徒らに笑つたのは木村だつた。木村は、今年もう一年遊んで来年から慶應の野球部へ入つて「ブリリアンド・ピッチャア」になるんだと力んでゐるスパルタ型の美男だつた。
 やつぱり海へ来て好かつた――と純吉は思つた。
「何しろ純公は文科大学生なんだからなア。」野島はさういつて純吉をからかつたが、一寸真顔になつて、
「文科ツて奴は女にもてるさうだのう?」と木村に訊ねた。
「うむ、非常にもてるツてよ。お前も柔道なんて止しにして、ひとつ文学に志したらどんなもんだい。」木村はまぢ/\と野島の顔を打ち眺めて、煽動した。
「俺は文科の学生が一番嫌ひだよ。」純吉はさういひながら、彼等と同じ黒い褌をしめてその円陣に加はつた。「俺あんな学校に入つて沁々後悔してゐるよ、いや学校は知らないが、その文科の学生といふ奴が実にやりきれないんだ。」といつて純吉は一つ息を入れた。
「先づ第一だね、教室へ入るとプンとスエ臭い香ひがするんだ。」
「神経質か、よせよせ、お前が一寸怪しいぞ。」
「いや待つて呉れ――」純吉は慌てゝ手を振つた。だが一寸言葉が続かなかつた、そんな説明も面倒になつて、少くとも夏になつてあの空気から離れてホツとしたことをひとりで味はつた。さうかといつてこの海の連中が好きといふわけでもなかつたが、気易さだけが有難いと思つた。だが、文科の奴等は嫌ひだとか何とかいつてゐるものゝ彼等に勝つた何の心の取得が自分にあるのか、またこの海の連中に比べて何れ程自分は思慮深いか、両方の愚劣な個所だけを兼備へた、そしてその他にはたゞ彼等を上ツ面だけで軽蔑するといふ不遜な心しか持ち合せないのが自分なのか――純吉はそんな妄想に走らうとした鈍い神経を、慌てゝ吹き飛した。
「ところで島田はこの四五日どうして出掛けて来なかつたんだ。をとゝひあたりからとてもキレイ[#「キレイ」に傍点]になつたぜ。なア木村!」
「とても、とても! それとも島田は柄に
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