、思はずサイパンを睨めつけてしまつた。――「何といふ無礼な奴であらう。」
 私は、稍暫く重い腕組をして熟考の底にさ迷ふてゐたが、決して思はしい考慮が浮んで来なかつたので、つい溜息と一処に、
「これは、結局、金袋をこしらへるより他に手だてはないのかしら?」
 と呟くと――突如、酒場は、スパルタの下院議員がアテネ討伐の可決に立ち上つた時のやうに湧き立つて鬨の声をあげるや、
「さうだ、さうだ!」とか「先生が、それを決心するのを俺達は息を殺して待つてゐたのだ」などゝ、或者は帽子を飛し、或者は上衣を旗にして絶叫した。
「――つまり明日から私も、講義を止めて、働くといふことなんだが……」
 私は一同の者が何うしてそんなに激しく讚同の喚きを挙げるのか、不思議に思ひながら言葉を続けようとすると、彼等はもう私の言葉などには耳も傾けずに熱狂して、ドツとばかりに私をとり巻くがいなや、
「講義は休みだ、嬉しい/\!」
「酒が飲めないことよりも、講義の休みの方が甲斐がある。」
 斯んなことを喚きながら、忽ち、先刻のよりも花々しいカロル踊りをはぢめた。もうすつかり、それで湧き立つて人の言葉などは聴く者もなくなつたので私は手風琴を弾きはぢめた妻君の傍らへすゝんで、
「一体これは何うしたわけか、僕は未だ胸中の工夫も少しも発表しないといふのに?」
 と質問すると、妻君は口笛の絶間に斯んなことを述べた。
 ――もう一ト月も私の講義に続かれたらサイパンはおろか、村の若者は悉く勘当されるといふ苦境に至つてゐたのである、といふのは講義が済むと私はいつもいつもあられもないソフイスト気取りで、飲む、飲む、飲む、それがもう大変な莫大な聴講料に当つてしまつて、あちこちの家々では家庭争議が絶え間もなく、やがては村の騒動にならんずる雲行であつた。
「さうであつたか!」
 と私は深い感慨に打たれて、それにしても彼等一同の憤しみ深かつたことに同情の念に堪へなかつた。
 それ以来私は、R漁場の魚見櫓に奉職して、毎日毎日何回となく長梯子を登り降りしてゐた。サイパンとメイ子は、店を閉ぢて漁場の食堂係りをつとめた。私達は、サイパンの店の一隅に巌丈な錠前をとりつけた銭箱を備へて、酒樽到着の夢を見ながら、漁《すなど》りの業人は海原へ、牛飼等は山向ふの牧場へ、小作家は田畑へ、皆々孜々として仕事に励み、一日の労銀を携へて帰る夕暮時に、その
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