に、そのまゝさうして潰れてゐるのさへ、不安になつて来るのだ。
「恋に焦れて悶ふるやうに――恋に焦れて悶ふるやうに――」
本箱の中のオルゴウルが、アウエルバツハの酒場の歌を奏しはじめたりするのであるが、傾ける耳などを持ち合す筈もなく私は、全く毒を嚥んだ鼠に等しく七転八倒、正しく恋に焦れて悶ふるやうに狂ひ回つた上句、鎧櫃の在所を手探り求めると、夢中で、重い兜を頭に載せ、鎧を身につけ、そして黒い鉄の面あての中に顔を埋めて、吐息を衝くと、はじめて我身の生きてゐたことに微かな知覚を持つのであつた。――云はゞ、風巻に煽られようとする屋根が、おさへの石で、静つたのを見て安堵の胸を撫で下す音無の心境であらう。
そのまゝ私は息を殺して、鎧の中で夜明けを待つことが多かつたが、或る晩のこと、例の如き大暴れの後漸く鎧の中に収つて、吻つとして、眼をあいて見ると、私は、隈なき月の光りがさんさんと降りそゝいでゐる河原のふちに立つてゐる自身を発見した。あまりの激しい恐怖と苦悶との闘ひのために、私は無意識のまゝに、こんなところまで転げ出てしまつたものと見える。
面当《めんあて》の大きさは私の顔の凡そ倍大であつたから、その長方形にくりぬかれた口腔から、私は外景を眺めることが出来た。すべて鎧は、その大きさで、草摺りは私の脛の半ば下まで垂れ、袖は腰を覆ふまでに深く蝙蝠の翼の如きであつたから、胴の中で私は外皮の鎧を動かすことなく、自由な身動きをすることも出来る程――それ程、その鎧兜は小男の私には不適当なものであつたから、
「これは失敗つたぞ――飛んでもないところへ出てしまつたのだ!」
と、私は気づいて、慌てゝ駈け戻らうとしたが、駈けるどころか、兜の両端を盥を被つたやうに両手でささへたり、スキーを穿いた脚のやうに毛靴の足どりを気遣つたりしながら、辛うじてよた/\と、がに股の醜態で歩みを運ぶより他は手もなかつた。
一体、それで、何うして、こんなところまで飛び出して来られたものか、それが、恰で夢のやうで、更に私は堪へられぬ不安を覚えた。(斯んな経験があるので私は、先刻の、屋上の騒ぎのことも未だ夢とばかりは信じられぬのである。ヒポコンデリイが嵩じて、夢遊病と進んでゐるやも知れぬ。)
こんな素晴しい月夜だと云ふのに、嵐の夢に襲はれて斯んな騒ぎを演じてしまふやうでは、これから先の冬の日が思ひやられる――私は
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