出来ねえんだらう、ヘツ! 俺アこれでも世界中を渡り歩いて来た人間だア!」
 偉いよ! と、彼は父に悪意を持つて呟いだ。彼は、母に味方してゐたからである。――父の声は、益々高まつた。
「俺のことは、関はないよ、勝手にしろ!」
 勝手にしたら好いぢやないか――と、彼も呟いだ。
「それよりも手前エの息子のことを気をつけろ! 息子に聞かれないやうに要心しろ! 恥知らず奴、皆な恥知らずだ、加けに彼奴は、シンの奴は、ぬすツと見たいな野郎だ、面からして気に喰はねえやア! ――どうせ、手前が生んだガキだ、俺ア知らねえよ。」
 彼は、ぬすツとのやうに呼吸を忍ばせて、窓から抜け出した。そして山本の家へ駆け込んだ。
「跣で――どうしたの?」
 ※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]小屋から出て来た咲子は、彼の赧い顔を見てなじつた。――草花を庭に植えてゐたところだ、といふやうなことを云つてから彼は、
「どうして×××なんかを、持つてゐたの!」
 と、雑誌のことを訊ねた。
「買つたのよ、この間――東京で。」
「さう、――ぢや、さよなら。」と、云つて彼は直ぐに引き返した。派手好みな、嬌慢な咲子の美しい姿が、もう彼の手のとゞかないところで、古い夢のやうに煙つてゐた。
「随分、ひどい人ね――」と、うしろから咲子が浴せかけた。彼は、体が空中に吹き飛んだやうにテレた。たゞ、彼女の声を、甘く胸に感じて、一層身が粉になつた。――咲子のことを、カン子といふ名前に変へて彼は、その「散文詩」の中で、咲子が若し読んだならば酷い幻滅を感じるに違ひない程に書いてゐた。咲子と彼とは、彼が未だ周子と結婚しない頃、親同志の婚約があつた。「この金持の娘は、金に卑しい。」などとも彼は書いた。彼女は、金持の一人娘だつた。
「自らそれ[#「それ」に傍点]を得意としてゐる哀れな娘」などとも彼は書いてゐた。
 外から、そつと窺つて見ると、未だ父と母との間では、盛んに彼の名前が活躍してゐた。……――「まつたく俺は、あの時、父や母の間で交されてゐる、シン! シン! が、さ。暫く聞いてゐるうちに自分とは思へなくなつてしまつたよ――戸袋の蔭に、ぴつたりと雨蛙のやうに体を圧しつけて、彼等の悲痛な争ひを聞いてゐると、まつたく馬鹿/\しくなつたね――たしかに俺は、蛙だつたよ、あの時、シンとかといふ彼奴等の息子は、悪い野郎だな――と、蛙である俺は、あきれて呟いだのさ。」
「お前は、そりや呑気だつたらうよ、さぞ面白かつたらうね。」
「面白くはないさ、そんなありふれた騒ぎなんて……」と、彼は、退屈さうなセヽラ笑ひを浮べた。
 これは、彼の先程からのあやふやな自問自答である。相手は、あの「名前」である。
「だが、君。」と、彼は感傷的な声で相手を呼びかけた。――「阿母とは仲良くして呉れね、特別に親孝行なんて仕なくつても好いが、普通の息子らしくさ……それだけのことも俺には出来さうもないんだ。」
「お前は、何かにこだはつてゐるんだな、倫理的な立場で――」
「――憎んではゐないさ。親だもの、たしかに母親だもの、――父親ツてエのは、これで疑へば疑へないこともないが、母親だけは疑へないぜ。周子が、子供を生んだ時、親父が沁々と云つたぜ――母親には、自分の子供を疑ふ余地がなからうな、たしかに自分の子だからね――だつてさ、馬鹿だね。……俺、あの時、一寸厭な想像をして、思はず親父の Bawdy appearance を覗いたぜ。」
「馬鹿だなア、お前こそ――」
「そんな話は止さう。ともかく阿母のことは頼むぜ。」
「よし/\、俺が引きうけた。」
「名前」は、斯う云つて見得を切つた。――。
「安心しろよ、何だい、べそ/\するない、ぬすツとらしくもない。」
「阿母だつて、寂しいだらう、親父にはさんざ憂目を見せられ、そして俺が、俺が……俺は、阿母は好きなんだ。顔だつて、心だつて随分俺は、阿母に似てゐるぢやないか!」
「よし/\もういゝ/\、お前は、名前のない人間なんだから愚痴を滾す必要はないんだよ。」
「それでも、いゝか? ほんとうに。何かにつけて不便なことがありやしないかね。」と、彼は絶へ入りさうな声で念をおした。
「そんなことは、俺たちの狭い世界だけの話だ、お前は独りでさつさと歩いて行つて関はないよ。」
「いよう! 君は、随分、度量が拡いんだね。――いや、有り難う、ぢや、失敬するぜ。」
「うむ。」
「ぢや、さよなら。」
「早く行けよ。」
「今、行くよ――握手しようか。」
「そんなことは御免だ。さつさと行つてくれ、少し焦れツたくなつて来た。」
「俺、何だか行くのは厭になつた、急に。」
「女のやうな奴だな。」
「厭だ/\、俺ひとりぢや、やつぱり寂しいや、せめて君が……」
「それぢや何ンにもなりやアしない……」
「何ンにもならなくなつても好い
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