夫々生れながらに一個の鏡を持つて来てゐる筈だ、自分の持つて来た鏡は、正当な使用に堪へぬ剥げた鏡であつた、僻地の理髪店にあるやうな凸凹な鏡であつた、自分では、写したつもりでゐても、写つた物象は悉く歪んでゐるのだ、自分の姿さへ満足には写らない、更に云ふ、凸凹な鏡である、泣いた顔が笑つたやうに写る、頭の形が、尖つたり、潰れたりする、眼がびつこになつて動く毎に、釣りあがつたり、丸くなつたりする、鷲のやうな鼻になつたかと思ふと、忽ちピエロのそれのやうになる、狼の口のやうに耳まで裂けたかと見ると、オカメの口のやうに小さくなる……実際そんな鏡に、暫くの間姿を写してゐると、何方《どつち》がほんとの自分であるか解らなくなつてしまふ時がある……。
 以上のやうなことを彼は、もつと/\長たらしく呟き初めた。自分の責任に依る話であるにも関らず、「家」のことになると直ぐに話頭を転じてしまふ彼の心が、藤井には一寸了解し憎くかつた。小胆なのだな! と思はずには居られなかつた。
「もう少し、はつきり云へよ。比喩は御免だぜ!」
「いや、ヲダハラの△△床の鏡は……」
「厭にヲダハラばかり軽蔑するね。」
「……銀行の奴等にさう云つてくれ。利息ぐらひ何でえ!」と、彼は云つた。語尾が「でえ」といふやうになると彼は、もう駄目だつた。誇大妄想に等しい酔漢に変つてゐるのである。――此奴、社会主義の仲間にでもなつたのかしら、いつの間にか! あれの下ツ端は、皆な気の小さい貧乏人ばかりださうだが――ふと藤井は、そんな気がした。
「幾らだア! 幾らだア!」
「……おい、止せよ、外を通る人が変な顔をしてゐるぜ。」
「俺ア、泥棒だアぞう!」
 さつき彼は、変に心細い気持に陥つて、如何に自分が情けない存在であるかといふことを知らせる為に、鏡の比喩などを、当つぽうに用ひたのであるが、折角の言葉に藤井がさつぱり耳を傾けなかつたのが気に入らなかつた。彼は、そんな原始的な比喩に得意を感じたのである。……「何だつて、はじめての苦労だらう、だつて! ヘツ、止して貰ひたいね。苦労たア、どんな塊りだア! いくつでも持つて来やアがれ、皆な喰つてしまふぞう……親爺が死んで、長男即ち吾輩が、だね、あまり無能だからか、そりや無能は困るだらう、困るには困るが、無能だつて余外なお世話だ、今更無能を悟つて、誰が驚く! 苦労たア、何だ!」
 彼は、そんな似而非ヒロイズムを呟きながら、がくんがくんと玩具のやうに首を動かせた。何だか眼瞼が熱くなつて来る気がした。
「困ツたなア!」
 藤井は、さう云ひながら彼の細君の方を顧みて「やつぱり僕ぢやいけなかつたですね……石原さんに来て貰つた方が好かつたんだがな――」と云つた。
「誰だつて同じよ。」
 周子は、煩さゝうに突ツ放した。
「毎晩、こんなに飲むんですか?」
「毎――晩!」と周子は、力を込めて、うつ向いた。バン[#「バン」に傍点]のン[#「ン」に傍点]が曇りを帯びてゐた。
「心馬悪道に馳せ、放逸にして禁制し難し……どうだ藤井! 景気の好いお経だらう……心猿跳るを罷めず、意馬馳するを休まず――五欲の樹に遊び、暫くも住せず……あゝ。」
「…………」
「俺ア……」
 藤井は、また彼が調子づいてどんな野蛮なことでも云ひ出すか解らない、それにしてもさつきからの雑言は如何だ! 一本皮肉を云つて圧えてやらう、と思つて、
「簾をかゝげて、何とか――なんて、君はいつかハガキの終ひに書いて寄したが、簾なんて何処にも掛つてはゐないね。」と、笑ひながら側を向いた。
「……ありア、だつて君――詩だもの。」と彼は、不平顔でテレ臭さうに弁解した。
 藤井は、更ににや/\と笑ひながら、
「斯うやつて、毎晩、酒を飲みながら君は、詩を考へてゐるの?」と訊ねた。
「……うむ。」と、彼はおごそかに点頭いた。

[#5字下げ]二[#「二」は中見出し]

 芝・高輪から彼が、此処に移つて来たのは晩春の頃だつた。――東京に来てから二度目の家であつた下谷の寓居を、突然引き払つて芝に移つたのは、前の年の暮だつた。
「随分、引ツ越し好きだね――折角、東京に来たといふのに、さつぱり落着かないぢやないか。」などと知合の者に問はれると、
「どうも、せめて居場所でも変らないと……その、気分が――ね。」
 そんな風に彼は、余裕あり気に答へた。彼は、気分も何もなかつた。引ツ越しは、嫌ひなのである。
 暮の、三十日だつた。午頃、いつものやうに彼は、二階の寝床の中で天井を眺めてゐると、階下に何かドタドタと聞き慣れない物音がした。
(おや――今時分になつて、煤掃きでも始めたのかな!)
 普通の家らしいことをするのが、出京以来特に、妙に気が引けてゐた彼は、そんなに思つて苦笑した。――(たしか賢太郎が泊つてゐたな? 姉の夫は、さつぱり兄らしいことを
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