の無数の表情は一様に向ふを眺めて何か好意に充ちてゐるかのやうな長閑な微笑が漂ふてゐた。
人々の肩の間から事故の焦点を注視すると、交叉点のゴー・ストツプに故障が生じたのである。二人の係官が満身の力を込めて、ハンドルを回さうとしてゐるのであるが、断然動かなくなつてしまつたのだ。
「やあ、ゴー・ストツプが眠つてしまつた。」
「誰か手伝つて……」
そんな声がする。
一人の係官は、他の係官の助けを借りて、「交通整理機」の柱をよぢ登つて、あの灯籠のやうな個所に踏み止まつて、仔細に、故障の個所を験べはぢめた。――帽子が邪魔になつて、下に投げ棄てた。気の毒にも、汗に堪へられなくなつたと見えて、上着を勇ましく脱ぎ棄てゝ、懸命に表示板を叩いて、首を傾げてゐる。
別の信号灯が用意されて、交通は間もなく開けたが「交通整理機」の故障は、容易に回復しなかつた。――街々の光りを映して流れる河のやうな往来は、もうそんなことには気もつかず、目眩《めまぐる》しく、とうとうと流れて止まなかつたが、その真ン中の動かぬゴー・ストツプの上で、飽くまでも修繕の仕事に没頭してゐる係員のシヤツ一枚の姿が、夢幻的に、巨大な蛾のやうに見へた。
はぢめは同情の念に堪へられなかつたが、いつの間にかそれも春の晩の長閑な光に溶けこんで、歌でもうたひながら呑気な仕事を続けてゐるようだつた。それにしても、その姿は、火をとりに現れた不思議な蛾に違ひなかつた。――皆なが歩き出したので私も従つたが、余程離れて振り返つても、未だ彼は、塔の頂きに凝ツと止つてゐた。
底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
2002(平成14)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 オール讀物号 第一巻第三号」文藝春秋社
1931(昭和6)年6月1日発行
初出:「文藝春秋 オール讀物号 第一巻第三号」文藝春秋社
1931(昭和6)年6月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2009年12月9日作成
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