すり》に凭つて海を見下ろした。
「やア……」
私は、そんな感投詞を放つた。
「止さう/\。」と、藤村は私の袂を引いた。――雨あがりで濁つた水が、渦を巻き、岩にあたつて水煙をあげてゐた。
老婆がひとりで番をしてゐる掛茶屋が、直ぐ背後《うしろ》にあつた。前に来た時私は、そんなものに気づかなかつたやうだ。
茶店に腰を掛けて、前を眺めると、絶壁が空の半ばを覆うてゐる。曲りくねつた松が、水平線の上に突き出てゐる。見えないが、底の方で波が轟々と鳴つてゐる。トンネルの出口が、片眼のやうに凝ツと見ゆる、さういへば、この断崖は達磨の頭のやうな円味を持つて海に面してゐるのだ。
「ビールを飲むのも厭だよ、酔ひさうで……」
藤村は、達磨の頭上を仰いで、そんなことを云つた。まつたく私達が、蠅のやうに翅を休めてゐる位置は、達磨の肩にあたつてゐた。
「お婆さんは、此処に泊つてゐるんですか。」などゝ藤村は訊ねた。
トンネルの中から洩れる音は、筒をあてゝもの云ふやうに、散らずに響いて来る。下駄を引ずる音が聞えた。にぎやかな話声が洩れて来た。――私達は、黙つてトンネルの出口を眺めてゐた。そこを通つてくる風は特別に冷たかつた。
田舎からの湯治客らしい二人の老爺《としより》が、晴々しく、物珍らし気な微笑をたゝへて、そこから出て来た。彼等は、景色について愉快さうに話しあうてゐた。
そして私達の傍に来て、腰を降した。
若者が、悸《おび》えた虫のやうに息づいてゐるにも関はらず、彼等は飽くまでも明るく、享楽に充ちてゐた。
二人の老爺が、如何な話を取り交してゐたか、今私の記憶には何も残つてゐないのだが、勿論彼等は、暫らく振りの天気を有り難がりながら、こゝの絶景に就いて愉快な嘆賞の声を取り交してゐた。彼等の会話を覚えてゐて、今私がこゝに挿入することが出来ると、この蕪雑な私の文章にも多少のうるみが生じ、そして叙景の拙い私の筆の代りになるのだが、忘れてしまつたのだから仕方がない。――たゞ私は、田舎言葉のまゝで無造作に放つた老爺の明るい、一つの声が、今でも耳に残つてゐる。一人が、達磨の頭を見あげて、
「アノ、素《す》てッぺんから、転ばり落ッこッタラ、如何ヅラァなァ!」と、頓興な早口で叫んだ。それに惹かれて相手の者も、無造作に眼を挙げ、
「粉になッちまふヅラァ! ハッハッハ。」と、景気好く笑つたのである。
藤村と私は、思はず眼を合はせてテレた笑ひを浮べた。たしかに私達も、そんな思ひに打たれてゐたに違ひなかつた。――私達は、自分達の不甲斐なき因循さが可笑しかつた。
帰りがけには、私達は、平凡な悲観家から、いつものやうな平凡な楽天家に変つてゐた。肩を組み合せながら、トンネルの中を歩きながら、
「アッハッハッ……粉になつてしまふヅラァ――は好かつたね。」
「素てッペンから転ばり落ッこちる! も実にうまいね……ハッハッハッ」などゝ、凡そ他の誰にもこれ程な面白味は感ぜられまい、それだけに自分達は……それ程の心で、異様に亢奮して、笑ひこけ、同じ言葉を何遍も繰り返した。
「素てツぺん。」といふのは「頂上。」、「転ばり落ッこッたら。」といふのは「若しも転げ落ちたならば。」、「ヅラァ。」といふのは「だらう?」――夫々、それ程の意味の方言である、然も私達の育つた地方の野語であつたから私達には、説明の要なく老爺達の会話がその儘、胸に響いたのである。
[#5字下げ]四[#「四」は中見出し]
私の小説「環魚洞風景」は、以上で終りなのだが、六年経つた現在でも私達は、未だ同じやうな状態にゐることを一言附記しておかうか。
私は、あの頃のまゝの姿で、今や追はれ追はれて、名前も知らなかつた東京のと[#「と」に傍点]ある郊外の茅屋《ぼうおく》に、仮屋して佗しい日を送つてゐる。たゞあの頃と違ふと云へば、偶然に私は一女を得て妻となし、一人の子の父となつてゐるだけのことである。結婚当座一年ばかり、六年前の続きで、あの町に住んだが、そして藤村と同じ境涯に陥つた宮田といふ旧友の訪問で多少の寂しさを救はれもしたが、今では、あの町の二つの家共々、父の多くの事業の失敗の揚句から人手に渡つてしまつたのである――そして私は、未だ実家へ帰ることを許されないのである。――現在では私は、父とは仲直りしたのだが、新しく母との不和が生じてゐたのだ。――そして私は、たゞ徒らにあの頃と同じやうに夢見るだけで、何の研究方針も定まらないのである。
藤村のその後の動静は略さう。ほゞ私に似たものであるから。――私のやうなものに取つて、結婚生活が幸福である筈はない、そんな夢こそ見たこともないんだから今更驚きもしないが。だから別段に、未だ独りでゐる藤村が羨ましいとも思はない。
「××山のトンネルが水を吐き出して、工事が出来なくなつたんだ
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