が、次の悲壮な場面に接して、水を打つたやうに寂とした。
二人の闘剣者は、私の声に気づくとにわかに心持にたるみが生じたかのやうに、そして亢奮の絶頂から脚を踏み滑らせて、転落する滝のやうに激情の花弁を飛び散らせて、諸共にワツと泣き出すと同時に、手にした剣を投げ棄て、私の胸に飛びかゝつた。
「村から村へ駈け廻らう――KATA−KOMAS の剣を捨てゝ……」
「飲んで騒いで――アウエルバツハで夜を明さう、KOMAZEIN……」
この二人のうめき声に接すると私も、にわかに胸が一杯になり、楯を大きな翼にして二人の者をしつかりと抱き寄せて、
「飲んで騒いで、飲み明して――明方を待つ間もなく俺達はこの村を出発してしまはうではないか。おゝ、よし/\、俺が悪いのだ、何も彼も俺が悪いのだ、勘忍してくれ/\!」
と咽び入つてしまつた。――この楯の表面には「コモイダスの心を知る者あらば共に飲まん、共々に打ち伴れて吾等の旅を続けん。」といふ意味のギリシヤ文字が誌してあつた。この楯は、つい先頃村の酒場で、バツカスの灌奠祭を行ふた時の余興の仮装舞踏会に、私達三人はスパルタの兵士に身をやつして出場したのであつたが、紋章の代りに私が花文字をもつて書き誌したボール紙の楯であつた。
「何でえ、人騒がせをしやがつて、そんなことでお終ひか、戯談《じようだん》ぢやない。」
「あの不良青年共は、あんな騒ぎをして俺達の眼をごまかして、逐電でもしてしまはうといふ魂胆だつたのかも知れないぞ。」
「今夜は何処の家でも、厩の扉には番犬を繋ぎ、其処の河舟には鎖を繋いだ上で、眠ると仕様ぜ。」
「あの楯に誌してある文句は、何でも、俺達と一処に飲まう、飲んで騒いでゐるうちにはやがて歌も歌へるやうになるだらう――とかといふ意味ださうだが、あいつ等は何時まで経つても歌一つ歌へさうもないのにヤケツ腹になつて、倒々同志打ちが始まつてしまつたさうなんだつてさ……」
「同志打ちなら同志打ちで、何とか綺麗な景色を見せて呉れるかと思つて来て見れば……」
村人は口々に斯んな憎態な棄科白を残して、立ち去つて行くのであつたが私達は、返答の一つの言葉も忘れて一つの楯の下に気を失つたまゝであつた。
それから暫く経つて私は、居酒屋の娘と妻に両方から腕を執られて立ちあがつた。そして娘と妻の両端には剣を杖に擬した二人の学生が辛うじて支へられてゐた。
二人の闘剣者は、戦ひに破れて息も絶え/″\になつて故郷に立ち帰つた兵士のやうに二人の可弱い女に助けられながらよたよたと田甫道を引きあげてゐた。
「御覧なさいよ、綺麗ぢやありませんか、麦畑の上にあんなに蛍が飛んでゐるわ!」
「ちよつと振り返つて見ないこと、満月だわ、山の真上に懸つてゐる! もう大分夜も更けてゐることだらうが、何だかさつぱり寂しくはないね。」
「振り返るのも苦しいの? ぢや、この眼の前の五人の並んだ影を見て御覧な、随分長い影だわね、そら/\脚がスイ/\と斯んなに長い、誰かちよいと手を挙げて御覧よ、河向ふまでとゞきさうぢやないの!」
「HさんRさん、ちよつと、その剣を上に挙げて御覧なさいよ、何んなに長く、その影が伸びて行つて何処までとゞくか験して御覧なさいよ。」
二人の婦人は、それからそれへ慰めの、いとも懇ろな言葉をおくるのであつたが、傷ついた兵士等は深く首垂れたまゝ、たゞ点頭くばかりであつた。
「もう鎮守様の近くよ、彼処まで行くと、居酒屋《うち》の灯が見へるわよ。彼処まで行つて、若し三人が歩けなくなれば、彼処からならあたしがお父さん! と大きな声で呼びさへすれば、父さんが馬車を持つて迎へに来て呉れるから大丈夫ですわ。」
「妙さん、重いでせう。若し、もう苦しかつたら三人を此処に置いといて、走つて行つて、お酒を持つて来て飲ませてやりませうよ。さうすれば三人共直ぐに勢ひがつくわ。」
「妾《あたし》は平気ですわ、それより奥さんこそ……」
「あたしだつて平気よ。もつと速く歩いたつて大丈夫よ、うちの人だつて、Hさんだつて、とても軽いんですもの……」
「Rさんも軽いわよ、御覧なさい、大方妾におぶさつてゐるぢやありませんか。」
「父さん、大丈夫起きてゐる?」
「だつて、父さんだけが今晩も甚太郎さんの相手なのよ。甚太郎さんの義太夫会がいよ/\眼近かに迫つて、今夜から、妾の家で彼の人は、その練習なんだけれど……」
「まあ!」
「ほんとうなら、さつきだつて、これ位ひのことで村の人だつてあんなに騒いで見物になんて来るわけはないんですけれど、まご/\してゐると甚太郎さんにつかまるので、それで此方の騒ぎを好いことにしてドツとおし寄せて来たんですよ。」
「ぢや早く帰つてやらなければ、父さんにも気の毒だわね。」
「えゝ――だから、妾、仁王門の処まで行きついたら、父さんを呼ぶわよ。――憎らしいわ、妾、あの下手の横好きの――仁王眼玉の甚太郎!」
「仁王門の前で、呼ぶのは愉快だわね、あたしも一処に声を張り挙げるわ。」
「昼間妾が仁王門の前を通つたら、あの甚太郎が自分のおさらひの会の立看板か何かを仰山に担いで来て、門の傍らに立てゝゐましたよ。憎らしいから、破いてやりませうか。」
「えゝ、破いてやりませう。」
「馬鹿な真似をするなよ。」
と私は漸く呟いだ。「俺は悦んで聴きに行く。今夜も、これから聴かせて貰ふ、酔つ払ひ共の悪騒ぎのない晩に、沁々と甚太郎の喉を聴いて……得難い思ひを囚へてやる。」
「五人の者が斯んなに一列に腕を組んで――」
また私に奇体な亢奮でもされては困るとでも思つたらしく、娘だか妻だか私には解らなかつたが慌てゝ言葉を改めた。――「斯うして歩いてゐると、道が斯んなに青白く平らで、まるで、腕を組んで氷滑りでもしてゐる見たいぢやありませんか。ホツホツホ……面白い/\! さあ、ラ・マンチア紳士も、ソフオクレスのお弟子さんも、そしてプラトン学校の落第生も、元気をつけて一と思ひに仁王門の前まで、氷滑りをして御覧なさいよ。」
「さうだ/\、皆なで一処に歌でも歌ひながら――氷滑りでいけなかつたら、ナンシー・リーで波の上としませう、それともカルデアの牧人で、雲の上でも関《かま》はないな。――こんなにふわふわとした月の光りが一杯の明るい白い道なら、波でも雲でも自由に想像出来るぢやないの! 雲の上を踏んで、飛んで行かう、飛んで行かう。」
などゝせき立てたが応じられる男は一人もなかつた。でも、その言葉に伴れられて怪し気な眼を視開いて見ると、行手の月光を浴びた白い道も、波のやうな麦畑も、薄黒い鎮守の森も――ただ漠々たる三態の雲に見へ、私達はペガウサスに打ち胯がり、トアパイロンの虚空を衝いて、一路オリムパスのアポロの許へ突進してゐる夢心地に襲はれた。
「さう/\、雲の上といふギリシヤ語をあなたは此頃覚へたと云つてゐましたね。これで俺は五つのギリシヤ単語を覚へた――と。テテツクス・蝉、コモイダス・喜劇役者、カタ・コマス、村から村へ……か、コマゼイン――飲んで騒ぐ……でしたね、それから雲の上――パアパア……何でしたかしら?」
「五つばかりぢやない、もう三百以上も覚へてゐる。」
「ほう、いつの間にか――偉いわね、その勢ひだつたら、今年一年もかゝつたら原文で本が読めるようになり、ギリシヤ語で詩が書けるようにもなれるでせうよ、偉いなあ!」
「この分で行くと僕の言葉は、そのうちに日常会話までが古代のギリシヤ語になつてしまふかも知れない……」
「どうして、それが悲しいの?」
「そんな死文字の数が増してゐる間は……それに反比例して僕の……」
「迷信だわ、そんなこと――。憶へて、それが悪いといふ筈がないわ。それで博士にでもなれゝば、こんな嬉しいことはないわ、あたし……。それはさうと、雲の上――といふのは何でしたかね?」
「…………」
「教へて下さいよ。――仁王門が見へる、甚太郎の立看板も、あんなに白く、はつきりと見へるでせう――」
「どれ/\、僕にはさつぱり解らない?」
「真ツ直ぐ――向ふ……に……」
「あれがオリムパスのお宮の門かね?」
「さうよ。雲の上を踏んで、間もなく到着するところだわ。彼処まで行くと、あなた方を蘇らすに充分なネクタア(御神酒)がある……か、ハツハツハ! さあ/\、元気を出して、急げ/\――だ。ね、何うしても思ひ出せない、パアパア――何でしたかね? 雲の上――?」
「煩せえな――。パアパアネフエラスだよ。」
私は慌てゝテレ臭くはき出すと、幾分元気を盛り返して、凝つと仁王門の前の白い看板を目あてに索めて、ふわ/\とした脚どりを速めた。
底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
2002(平成14)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「西部劇通信」春陽堂
1930(昭和5)年11月22日発行
初出:「文藝春秋 第八巻第七号」文藝春秋社
1930(昭和5)年7月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年1月17日作成
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