。これ[#「これ」に傍点]とかあれ[#「あれ」に傍点]とか云つても少しも私には解りませんが、Aも頓着しないので私も勝手に彼に喋舌らせておきました。私は碌々聞いてもゐません。ハタと、ハタと、とAが云つたのが聞き慣れない言葉なので面白く響いたゞけです。
「どうして好いか解らなくなつた。昨夜も一昨夜もその前の晩も俺は、まんじりともしないで二つの未定稿を繰り返し/\読んだが、あゝ、駄目だ!」
「へえ! 随分熱心なんだね! 何だか。」
「駄目ではいけないんだ、何んとしても駄目ではいけないんだ、俺は斯うしてはゐられない……行くんだ、行くんだ。」
「何処へ?」
「君、俺に勝手なことを喋舌らせてくれ。実はね、喋舌つてゐないと俺は眠くなつてしまふんだよ、斯うして快活に歩いてゐないと眠くて倒れてしまひさうなんだ。今日で俺は、永い間の昼夜転換を取り戻すんだ、夕方まで何んな苦しみを犯しても辛棒したいんだ。」
「なあんだ、それで、そんなわけのわからないことを喋舌つてゐたのか、出放題なのか。」
「まあ、さうだ。――君、少し駆《か》け歩《あし》をしないか。」
「……うむ。」
「随分好いお天気だね、珍らしいお天気だね、こんなおだやかな朝は滅多にないだらう。」
「この頃は毎日斯うだよ。」
「チヨツ! 馬鹿/\しい。夜は矢ツ張りいけないのかね、君。こんな日に机に向つてゐれば、どうしたつて頭が不健全になりつこはないね。」
「俺は、生れて二三度しか徹夜はしたことがないから夜のことは知らないが……君、もう少し歩《あし》をゆるめてくれないか。」
「――静かな冬から春へかけての夜更けであつた。私は、水底の魚のやうに毎晩凝つと机に向ひ通した。私は追憶の巻から取りかゝつたのであるが、どんなに無選択にその頁を繰り拡げて見ても何れもが自分にとつては思ひ出の気分にならない、あの心の小さな蔭のやうなものが何らの変りもなく今日の心に因果と通じてゐる、そして私は回想に疲れて、惧れを抱いた。」
「おうい! もつと、ゆつくり歩いて呉れと云ふのに――」
「君は、何年何月生れだ?」
「俺か? ――眠気醒しの出たら目に返事をするのも馬鹿/\しいな。」
「俺は明治二十九年十一月だぜ。だから今年は三十一だ。」
「十一月か君は……」
「うむ、秋生れだ。――あゝ、今日は何といふ奇麗な天気だらう、空は実に好く澄んでゐるね。空気は水のやうだ、君、口
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