阿父さんは云つたことがあるわよ。」
「…………」
 今日は終ひに何んな言葉を用ひるかしら? さう思ふと自分は、彼女の賤しい微笑に誘惑を感じたが――が、堪えた。この堪えるといふことは、不気嫌な気色を示すのに依るより他はない、自分はもうこんなことで彼女と野蛮な口論に達するのにも飽きてゐた――妙なことになつたと思ひながら、妙に不気嫌な気色を示して彼女の言葉をさへぎつた。――でも自分は、矢つ張り思ひたくない妄想に走らせられた。自分の弱い性質を、あの途方もない、汚らはしい想ひに結びつけた。
 私は、首を振つて、好い加減に口笛を吹きながら、合間に、世才に通ずる楽天家らしい口吻で云つた。――「……勿論、もう独身《ひとり》ぢやないと思ふよ。此方にこそ知らせてはないが。」
「ヘンリーが死んでからは満足にお金が送れなくなつたのが間が悪くはない?」
「だからさ――。俺は、N――が屹度結婚してゐるだらうと思ふよ。……案外、大変に惨めな境遇に陥つてゐるかも知れないぞ。」
 私が、嘗て父に向つて、十いくつかになつて初めて父を見て以来、何だか妙で、倒頭、阿父さん! とは呼び掛けたことがないやうな不思議な父と子を見て来た妻は、どうかすると今でも自分が彼女の前などで父を口にする場合などには却つて他易くなつてゐる父の洋名を、こんな場合に彼女が真似て用ひると何だか自分は酷く厭な気がしてならなかつた。――だが、あの計画をたてゝ以来は彼女が、大変に安価な浮れ口調を用ひても自分は、これまでのやうに妙に気六ヶ敷気な顰め顔もしないで、却つて軽々と雷同することの方が多かつた。彼女は、急に洋服などを着はじめて英会話の練習に通つたりしてゐた。自分にも彼女と等しくその必要はあつたのだが私は、一寸と改まるとなると普段の会話でも、行儀正しく向ひ合つては酷く駄目な質で話の出来ないことには慣れてゐたから、そんな練習はいらないと思つた。尤も練習したならば寧ろあの方が無神経に話せるだらうといふ気もしたが、そんな妹や、不思議な継母に会ふのには話などは流暢でない方が自分にとつては都合が好い気がした。それに、おそらく未だ日本語を忘れてゐないだらうF――がゐるから差支へない、彼女とは私は、自国のどんな婦人と話す場合よりも無神経に、此方も故意に稚々と運ばなければならなかつた吾らの言葉での何年かの交際に慣れてゐたから。
「吾家も、これで仲々芝居
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