私は、友達に見つからぬやうに夜中になつて下宿の押入れの奥から秘かにこれを取り出してポツポツと打つのが常だつた。私信の場合に斯んなものを用ひることが許されないのは知つてゐたが、当時一行の文字を書いても直ぐに感傷的になり勝ちな癖から脱れるには怪し気な英文に依るこの事務的な動作を用ひるより他に術がなかつた。でなかつたら私が、あの頃Fに出す手紙はおそらく不気味なラブ・レターになつたに違ひない。
[#横組み]“My Dear Flora, H――”[#横組み終わり]
 私は、胸のうちでこれを修飾的に和訳して胸を顫はせた。和文では恋人に送る手紙でも私にはそんな文字は使へない。極めて非事務的な思ひを込めて、事務的な習慣らしく何気なさゝうに[#横組み]“From, your's, your's”[#横組み終わり]と打ち、心細く S.M. などゝ署名した。父の場合でも私は、父上様などゝ書くのはどうも厭でならなかつた。だから矢張りこれ使つて破れた文字を連ねた。
「どんなに字や文句が拙くつたつて好いからあたり前の手紙を書いたらよからうに。ビジネスぢやあるまいし。」と、父に厭味を云はれたこともあつた。
「悪い癖だ。――私に寄越したこの間の手紙などは二三行でローマ字で印刷してあつた。近頃の書生の間ではそんな真似が流行《はやる》のかしら……無礼な。」と、母は嘆いた。私は、心持を説明することが出来なかつた。
 その頃Fの小さな従妹であつた混血児のNが、今では大きな娘になつてゐた。Nはこの頃神戸に住んでゐる。その父から、私の父が何か仕残した用件で二三度手紙を貰つてゐるが、私には意味が解らないので返事は出せなかつた。一ト月程前に、そんな用もあり、私が英語は一つも喋舌れないことを知つてゐるので父の代りに、私とは幼時のなじみがある日本語の巧みなNが上京して私と会つたのである。
 彼女が、礼で、私に握手をした時に、何年にもそんなことに慣れない私は、非礼にも顔を赧らめたりしてしまつたのであつた。子供に出す気持で稀に暢気な手紙のやうにとりはしてゐたのだが、いつの間にか私は無邪気な筆は執れなくなり、この間も昔通りに稚拙な和文で暢気な手紙を寄来したNへの返事で、――私は、妻にかくれる程な気持さへ抱き、到頭このボロ点字機を取り出したのである。去年の冬頃私は、これで読み易い古典英詩の抜萃をつくりかけたのであるが、十枚も
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