は、藤屋氏の末の娘さんであつた。
「まあ、マキノさん! お父さんはあなたからの手紙を毎日待つてゐましたわ。」
「済みません、突然今朝思ひ立つたので大急ぎで出かけて来ました。これは、あなたへの土産です。」
 私は、鉄砲を担ふやうに背に斜にくゝりつけて来た細長い花束の箱を取り降して、恭しく捧げた。私の馬の轡をとらうとするお嬢さんと、それを辞退する私とがボライトフルな争ひを交してゐると、私が今通つて来た林の中から、
「マキノ君、おゝ、たしかに吾々のマキノ君であつた。」
 と藤屋氏であつた。氏の言葉は際立つて直訳体めいてゐるのが特徴であつた。
「私は、君が山径を昇り降りして来る様子を、あの山の頂きから。」
 と氏は私が越へて来た小山の真向ひにあるところの雉子や山鳥の猟に適した禿山を振り仰いで、
「ずつと眺めてゐたんだよ。時々声をかけたが届かなかつた。そして林の中に君の姿が消えると同時に、君よりも先に此処に来着いてゐる心意《つもり》で駆け降りて来たのだが、君の脚並みは余程速かつた。君が歌ふ声高らかな唱歌が、止んだと思つたら、もう君は此処に来着いてしまつた。」
「聞えました? 私は、あの歌をうたふと何時何処でゝも心が躍つて、無闇と脚が速くなるのが習慣なのですが――」

     三

 先刻私が途中で聞いた鉄砲の音は藤屋氏が雉を打つた音だつたのだ。食卓には獲物のローストが配せられた。
 私はこのピエル・フオンの館の書斎や食堂の有様に就いて詳さに記述したいのであるが、それは別の機会に譲らなければならない。が、読者は私の此処までの筆致や形容詞に依つて、実在のピエル・フオンの堂々たる古城の有様を連想されぬことを祈る。山合ひの木立にかこまれた最も簡素な――その幾つかの棟は槌と鋸を渡されたならば私にでも建てることが出来さうなその程度の、だが飽くまでもだゝツ広い庵を想像されるだけで充分だ。そして、名称だけが物々しい幾棟かのアパートが、その昔偉い代官が住んだまゝと伝へられる薄暗い母屋をとりまいて点々と散在してゐるのだ。
 藤屋氏と私の文学談は、交々に卓上の台ランプのネジをまはしながら、何時まで経つても尽きさうもなかつた。私達は、藤屋氏の九十歳に垂んとする母堂が官許を得て、手づから醸造された世にも豊醇な酒をふくみながら、一わたりの古典文学談に区切がつくと、
「君に依つて実際上の手ほどきをされたフエンシングが、私は近頃大分自信がついたから、明日は一つ峠の野山に赴いて、馬上のままで渡り合ふて見ようではないか――」
「承知しました。――さつき先生が剣を抱へてお帰りになつた様子を見た時、私は、遂々ラ・マンチアの紳士を連想してしまひました。」
「では余ツ程私の容色は憂鬱気だつたのだな。さうだらう、もう一週間以来も鬚をあたる間もない程の忙しさだつたから……」
「どうぞ、そのまゝで――では一層、明日は――」私は書斎の隅に安置されてゐる氏が数年前に漸くの思ひで手に入れた西洋中世の銀色の鎧を指差して、
「之をお着になつたら如何です。私は最も花やかな空想と一処に、明日の手合せをお願ひいたし度うございますから。」
「それは私こそ望むところだが――」
 氏は不図悲しさうに眼蓋を伏せた。「幾度私も着て見たか知れぬのだが、とても大き過ぎて、例へば冑を被つて見ると、庇が額までも来てしまふのだよ。決して敵はぬ。」と呟いて一層熱い憧れの眼を視張つて、凝と人型のナイトを眺めた。
 ――中断のかたちだが、この一文の筆は此処で急に擱く。私は此間或る雑誌で友達に宛てた手紙の一節に、「田舎から携へて来た一枚の画、ピエル・フオンの古城の画を額ぶちに入れて、壁に掛け病の床から眼を挙げて城内の円卓の騎士達やシヤル・マーニユの兵士等のアパートや食堂を忍び――」と書いたが、その画といふのは、翌朝二人が馬に乗つて散歩に出かける時の姿を、門の前で藤屋氏の「ピエル・フオン」を背景にして氏のお嬢さんが撮つたエハガキ型の写真である。



底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
   2002(平成14)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「時事新報」時事新報社
   1930(昭和5)年12月18、19、21日
初出:「時事新報」時事新報社
   1930(昭和5)年12月18、19、21日
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年1月17日作成
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