して置けば、迎への馬車がK駅迄は仕立てられてゐたのに――と思ひながら、秋草の咲き競ふてゐる河原堤を溯つた。単独でR村を訪問するのはこれが始めてぢやなかつたか知ら? などと考へながら、小暗い森を駆け抜けた。芝の野原にさしかかつた時には、何といふこともなしに過ぎ去つた恋の思ひ出などに脳裏をかすめられたが、駒の鬣に顔を埋めて全速力で疾走した。鞍から飛び降りて、赤土の径を手綱を引いて先に立ちながら、曾て藤屋氏が町の歌妓に想ひを寄せて夜に日を継いで、この径を通ひ詰めた頃の事などを回想した。辻堂のあるすゝきの原に差しかゝつた時には、ヒユウ/\と空に鞭を鳴らして、一刻も速くR村に到達しようと念じた他に想ひは無であつた。
幾曲り幾折にして、漸く私は第二の丘の頂きの鬼塚と称ぶ空怖ろしい名称の峠に行き着いた時は、案外の速力であつたゝめに、日は未だヤグラ岳の真上に高く傾いただけの明るい眺めであつた。
二
谿流の横たはる谷間を越へた森の背後がR村である。私は掌を額に翳して遥の彼方を見降したが未だ村は見へなかつた。猟銃の音が稀に響いてゐた。私は手綱を曳いたまゝ、もう落つき払つて坂道を降り、街を過ぎ野を往き丘を越へ、我等は行くよ、青き火の炎ゆる祭りの山へ――など、馬子唄調に似た悠長な胴間声で歌ひながら丸木橋を渡つて針葉樹の木立の中に入ると、更に声を洞ろに高くして、人の世の潮の流れ、嵐の雨、波に漂ひ、吹雪に目眩み、あゝ、されど吾等は飛び交ふ、自由自在に、生と死と限り知られぬ海原に、天と地の定めも忘れ野の果に、翻つては飛び行く……などゝ歌ひながら意気揚々と進んで行つた。
「コムピーエの森だな、藤屋氏にとつての――」崖から崖へ差し渡した橋を渡るとピエル・フオンの館の厳めしい門である門の傍に丸型の実物大のブロンズの楯が掛つてゐる。楯の表面に刻まれてある文字はラテン文字であるが翻訳すると「木造りの円卓酒を出し得べし、炯眼を放ちて自然を見よ、ここに奇蹟あり疑ふ勿れ」といふ意味ださうだが、訳されて見ても意味はあまり明瞭ではない。解らなくても怖るゝには当らない。この楯は訪問を知らすべき銅鑼なのである。
私は、剣型の撥を執つて力一杯青銅の楯を叩いた。不気味な音が陰々と木立の間を縫つて行くと、音響は山彦の作用で二倍に拡大されて番兵の居眠りを呼び醒すのである。閂の音がして門の扉が左右に開くと番兵
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング