れからそれへ花やかな雲のやうな繰言がむく/\とわきあがつて来て、おさへきれさうもなかつた。そして、凝つと腕組をして息を殺して見ると、小屋全体が徐ろに揺れて、宙に浮びあがつて行く通りに思はれた。――どんなに揺れても、火のまはりで談笑してゐる三人が、ありのまゝの姿でくつろいでゐるのが、馬鹿に奇妙だつた。
 若者は、気が遠くなりさうだつた。――どうして好いのか? 何をどうして好いのか? ……斯う心持が、にぎやかで、面白く、そして、胸が激しく鳴るのは、面白さからでもないやうな――悲し気な心地がしたり何かして、このまゝ凝つとし続けたら昏倒でもしてしまひさうな不安に襲はれたりした。
「お前さんは強い。これだけ飲んでもビクともしないのは、さすがに若い者だな――ミヤツでひとつ今晩は大振舞ひをやらうぢやないかね。」
「……強いのだか――」
 弱いのだか? 自分には解らない――と若者は云はうとしたが、弱い! と云ふのも何だか具合が悪いやうな、また、強い! などゝ云ふのも自慢見たいな! それから、酒飲みのやうに思はれたりするのも口惜しい見たいな! ……いろ/\と若者は、止め度もない気おくれがしたりして、焦れたかつた。
 若者は、激しく頭を振つた。――白い川が現れた。娘と自分が御者台に並んで堤を進んでゐた。……ミルク色の朝霧の中で若者は娘にキスした、――五体が忽ち底なしの硝子管見たいなものゝ中を急転直下して行くかのやうな怖ろしく甘い寒さに縮みあがつた。
「アハヴは腰の剣を抜き放つと、天を指して高唱した。――ロータスよ、別れだ!」
「え? 何うしたの――」
 と娘が眼を視張つた。口のうちで呟いたつもりだつたが、口に出たのか? と若者は気づいたが、アハヴとロータスの別離の場面がまざまざと眼の先に展開しはじめて、若者はたゞ呆然としてゐた。
「あゝ、さう、読んでゐる本なの? 面白い? 途中で話して!」
 娘はバスケツトをさげて立ちあがつた。
「ぢや、頼みますわ。」
 二人が御者台に並ぶと父親はタイキの轡を離した。
 いつか日は高くあがつて、飽くまでも明るく真ツ直ぐな街道が水々しく光つてゐた。遥かの行手にある橋は云ふまでもなく、その先の小山の麓の村から立ちのぼる細い煙までが、莨《たばこ》の煙りのやうに青い空に消えてゆくのが手にとるやうに見渡された。見透す限りに一直線の街道で、その対角線の中心を目差して進んで行くと、誰でも、ちよつと物狂ほし気に爽快な滑走! を誘はれる――そんな、見事な一直線の街道である。
「ぢやお父さん、先へ行つてゐるわよ。お父さんが出かける時分には乗合が通るわね、あれでいらつしやい。」
 娘は父親を振り向いて手を振つた。
 若者は、パンアテナイア祭の物語を何んな風に話して娘を悦ばさうか知らと思つてゐた。娘に素晴しい果物籠をつくつてやらなければならない! と思つてゐた。
「道々にこの花片を撒きたまへ。……夢にも後を振りむくことなしに、この瑠璃色の朝陽を衝いて、さあ、一散に発ちたまへ。」
 若者は諳誦した。
「あの本の話をして――」
「アハヴは――」
 と云つたゞけで若者は喉が塞つた。そして吾知らずタイキに鞭をあてた。タイキは一散に駈け出した。
「アハヴは不幸だ。俺は何処までも二人だな……。祭りへ行くのだ、パンアテナイアの祭りへ!」
 若者は夢中で叫んで唇を鳴し、空に朗らかな鞭を鳴した。
「あゝツ、速い! 面白いな――」
 と娘は若者の腕をつかんで叫んだ。
「面白い? そんなら明日から、毎日あの白い川のほとりを――。あの堤の夜明け時なら……」
 若者は、もう少しでそんなことを云つてしまふところだつた。若者は、陽を余りにまぶしく感じて、更に物々しく鞭を振つた。
「おーい。キヤベツがごろ/\転げ落ちてるよう。待つて呉れ/\!」
 軒先で見送つてゐた父親は、突然大声で叫んだが、応へがないので、同じことを絶叫しながら一目散に追跡した。



底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
   2002(平成14)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「西部劇通信」春陽堂
   1930(昭和5)年11月22日
初出:「文學時代 第二巻第七号(七月号)」新潮社
   1930(昭和5)年7月1日発行
入力:宮元淳一
校正:砂場清隆
2008年3月3日作成
青空文庫作成ファイル:
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