ゥたいぢやないか……」
「えゝ――毎年川遊びに事寄せて、竜巻村へ乗り込まうといふのが、私達の計画なんですつて!」
 さうしてゐる間にも、村人は次第に数を増して来て、店は時ならぬ繁昌を呈してゐるらしかつた。――雪太郎が酒樽の車を曳いて、門をくゞつて来るのが見へた。
「お雪は何うした、おういお雪――出陣の盃に酒を注いで呉れ。」村長の亢奮の声がした。「僕は――」、
 と私はベルタの手を執つて起きあがつた。
「朝の沐浴を済せて、直ぐ後を追ふから――と村長へ伝へて呉れないか。」
 私は、斯んな場合に、斯んなことを申し出る自分を、ベルタに対して恥らひを覚へたので、云ふと同時に彼女の不気嫌を期待したのだつたが、彼女は、不図私の顔を凝つと眺めたかと思ふと、投網の袋を背につけたまゝ、私の胸の中に顔を伏せて、わけもなくうむ/\と点頭いてゐた。その時、私の眼底には、あの竜巻村の、あの窓の下を、矢のやうに降つて行く一艘の小舟が映つてゐた。小舟では、鉄砲を抱へた私と、網を携へたベルタが肩を組んで「白雲」の歌をうたつてゐた。
 仁王の腕の影が、私達の脚もとまで伸びてゐた。その影の中に寝転んで、外の騒ぎに耳を傾けてゐると、私はやがて、遠くこの地上を離れて、今や私のローマンスの世界に到達したかのやうな鮮やかな夢心地に陶然としてゐた。
 ――私が書かうと試みてゐる物語の冒頭は、出陣の首途にあたつて恋人との別離を惜む勇士の姿であつたが、はからずも、その空想が眼の先の影の中に吾身をもつて髣髴として来た。その一節を私は「ダニューヴの花嫁」と題することに決めて、仁王の影の中から身支度をとゝのへて、やをら立ちあがつた。



底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
   2002(平成14)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「日本国民 第一巻第四号」日本国民社
   1932(昭和7)年8月1日発行
初出:「日本国民 第一巻第四号」日本国民社
   1932(昭和7)年8月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2009年12月9日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全7ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧野 信一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング