な、喰べたのか、お前は!」
 青木が三木の背後から妹に呼びかけた。が、雪子は急に馬の脚並を速めて丘の頂上へ駆けてゐたので、背後の声は聞えなかつた。
 間もなく雪子は、赤松の下に小さな祠のある丘の頂上に達すると、馬から飛び降りて、
「三木さんにも、あげるわ。うまく受けとつて御覧なさい。」
 といつたかと思ふと、青黄色い蜜柑を一つ三木をめがけて高く悠やかに投げた。三木は、それを歩きながら片手でうまく受けとつた。
「喰べて御覧な。」
 青木が傍らから、
「駄目だよ、喰べられるものか。」
 と注意したが、三木は、関はず、皮をむいた。
「雪子は意地悪なんだよ。だまして、そんなものを他人に喰べさせて、酸ツぱがる顔を見ようとしてゐるんだよ。止せ/\。そんな青い蜜柑が喰べられるものか――あゝ俺は見たゞけでも歯が浮いてたまらない。」
 青木は更に、そんな風にさへぎつてゐたが、三木は、
「平気だ。」
 といつて、いきなり口のなかへほうり込んだ。

     二

 三木は、蜜柑の酸さに身ぶるひして、
「これは驚いた!」
 ペツ! と、思はずほき出した。向方を見ると雪子が手を打つて笑つてゐた。
「ね、三木さん、あたしをつかまへて御覧なさいな。若し、つかまへたら、あたしの頬ツぺたを一つぎゆツとつねつても好いわ。そんな酸つぱい蜜柑を瞞して食べさせた罰として――」
「だつて、雪さんは馬に乗つて逃げ出すんだらう。それぢや、到底つかまる筈がありはしない。」
「そんなら、ドリアン(青木家の馬)を、あなたに貸してあげても好いわ、乗れる?」
「乗れる――」
 と三木は返事してしまつた。彼は、生来馬をあまり好まぬ質だつたが、ドリアンなら大丈夫だらうと思つた。だが、それには余程の決心が必要だつた。
 長閑な小春日和の野山である――酸つぱい蜜柑――戯れ――娘の頬をつねるといふ(決して、つねつたりするものか――その時は、その代りにその頬に接吻をしてもかまはぬであらう)目的で、勇敢なる青年が駿馬に打ちまたがつて、可憐な娘を追ひかけて行く――。
 三木は、そんな戯れな情景が、何だかお伽噺か神話にでもあるやうな事件に思へたりして、酷く愉快になつたのである。
 こんなに思つて見直すと、真上の丘の頂きに立つて、ドリアンのくつわをとりながら、此方に向つて呼びかけてゐる派手な黄色のジヤムパアを羽織つた靴下もはかぬ素足の靴で、
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