わないではないか。
 その時であった、ゼーロンが再び頑強な驢馬に化して立ちすくんでしまったのは――。ワーッ! と私は、絶体絶命の悲鳴を挙げて、夢中でゼーロンの尻《しり》っぺたを力まかせに擲りつけた。
 と彼は、面白そうにピョンピョンと跳ねて、ものの十間ばかり先へ行って、再び木馬になっている。まるで私を嘲弄《ちょうろう》しているみたいな恰好《かっこう》で、ぼんやりこっちを振り返ったりしているのだ。
「これだな!」
 と私は唸った。「水車小屋の主が、彼奴は打たなければ歩かぬ驢馬となった! と嘆いたのは――」
 私は追いすがると同時に、鞭を棄てて来たのを後悔しながら、右腕を棍棒《こんぼう》に擬して力一杯のスウィングを浴せた。
「そうだ、その意気だよ、もっと力を込めてやって御覧!」
 ゼーロンはそんな調子で、躍《おど》り出すと、行手の松の木の傍まで進んで、また振り返っている。丁度、加えられた痛痒《つうよう》が消え去ると同時に立ち止まるという風であった。――私は、こんな聞き分けを忘れた畜生に、以前の親愛を持って、追憶の歌を鞭にしていたことなどを思い出すと無性に肚《はら》が立って、
「馬鹿!」
 と叫びながら、再び追いつくと、私はもう息も絶え絶えの姿であったが、阿修羅《あしゅら》になって、左右の腕でところ構わず張りたおした。
 ゼーロンの蹄は、浮かれたように石ころを蹴って、また少しの先まで進んだ。
「地獄の驢馬奴!」
 私は罵った。もう両腕は全然感覚を失って、肩からぶら下がっている鉛筆のようにきかなくなっていた。私は地に這《は》って、憎いゼーロンに追いつこうとした、余りの憤激でもう足腰が立たなかったから――。すると、その時、猪鼻村の方角から、にわかにけたたましい半鐘の音が捲き起った。
「やあ! 奴等はとうとう俺の姿を発見して、動員の鐘を打ちはじめたぞ!」
 半鐘の音は物凄い唸りをひいて山々に反響し、擂鉢の底にとぐろを巻きながら、虚空に向って濛々《もうもう》と訴えている。――私は、眼を閉じて、ふるえる掌に石をつかんだ。私は、唇を噛み、
「このゴリアテの馬奴!」
 と怒号すると同時に、哀れな右腕を風車のように回転して、コントロールをつけると、ダビデがガテのゴリアテを殺した投石具《スリング》もどきの勢いで、はっしと、ゼーロンを目がけて投げつけた石は、この必死の一投のねらい違《たが》わず、ゼーロンの臀部《でんぶ》に、目醒しいデッドボールとなった。
 ゼーロンは後脚で空気を蹴って飛び出した。続け打ちにして、駆け抜けてしまわなければならない。私は重荷に圧《お》しつぶされそうにパクパクと四ツん這いになったまま、全速力で追い縋ると、もう次第に脚竝みをゆるめはじめたゼーロンの頤の下にくぐり抜けていきなり、えいッ! という掛け声と一緒に、飛鳥の早業《はやわざ》で跳ねあがるや、昔、大力サムソンが驢馬の顎骨を引き抜いた要領に端を発する模範的アッパー・カットの一撃を喰わした。惜しい哉、それは、ゼーロンが首を半鐘の方に振り向けた瞬間で、私の拳は空《むな》しく空を突きあげてしまった。余勢を喰って、私はあざみの花の中にもんどりを打った。然しひるまず私は息もつかずに跳《と》びあがると、昔、シャムガルが牛を殺した直突の腕を、ゼーロンの脇腹目がけて突きとおした。ゼーロンは、歯をむき出していななくと、ハードルを跳び超すみたいな駆け方でピョンピョンと波型に飛び出した。私は地をすって行く手綱を拾うと同時に、二三間の距離を曳きずられながら走った後に綺麗に鞍の上に飛び乗った。そして、突撃の陣太鼓のように乱脈にその腹を蹴り、鬣に武者振りついて、進め、進め……と連呼した。
 漸くゼーロンも必死となった如く、更に高《ハイ》ハードルを跳び越える通りな恰好で、弓なりに擂り鉢のふちを駆け続けて、いよいよ降り坂の出口にさしかかった。――振り返ってみると村の半鐘は出火の合図だったのである。地主の納屋《なや》のあたりに火の手があがって、旗を先頭におしたてた諸方の消防隊が手おしポンプを曳いて、八方から寄り集ろうとしている最中だった。ラッパが鳴る。喚き声が聞えて来る。折悪《おりあし》く井戸換の最中だったので、水が使えないので、火消隊の面々は非常に狼狽して、畦道《あぜみち》の小川までホースを伸ばそうとしているらしい。一隊の所有するホースでは長さが不足して、小頭らしい一員が火の見の梯子を昇って行くと、帽子を振りながら遠方の一隊に向って、
「ホース……ホース……」と叫んでいるのが聞えた。火の手は納屋から母屋《おもや》に攻め寄せたらしく、煙が暫《しば》し空に絶えたかと思うと、間もなく真白になって軒の間からむくむくとふき出した。
「ホース……ホース……ゼーロン……」
 梯子の男の声が不図そう私に聞えた。見るともう、ホ
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