来から記録に残された僅少の名前のみである。それにはこの森を深夜に独《ひと》りで踏み越えた豪胆者として坂田金時や新羅《しんら》三郎の名前が数えられて、今なおその記録を破る冒険者は出現しないと流言されている。通例は森を避けて、猪鼻から、岡見、御岳《みたけ》、飛龍山、唐松《からまつ》、猿山などという部落づたいに龍巻村へ向うのが順当なのであるが、私は既に塚田村で遠回りをしたばかりでなく驢馬事件のために思わぬ道草を喰ってしまった後であるから是非ともこの森を踏み越えなければ途中で日暮に出遇う怖れがあるのだ。縦令《たとい》記録に残って彼等勇敢なる武士《つわもの》と肩を竝べる誉《ほまれ》があろうとも、私は夜行には絶対に自信は皆無である。思っただけで身の毛がよだつ――。私は嘗《かつ》て徒党を組んでこの森を横断した経験があるから昼間の道には自信はあるが、がむしゃらに奥へ奥へと踏み込んで滝のある崖側《がけがわ》に突き当ると、今度は急に馬鹿馬鹿しく明るい、だが起伏の夥《おびただ》しい芝草に覆われた野原に出る筈だ。暗鬱な森を息を殺してここに至った時には思わずほっとして皆々手を執り合って顔を見合わせたことを覚えている。で、夢見心地でこの広々とした原っぱを通り過ぎると、間もなく物凄い薄《すすき》の大波が蓬々《ほうほう》と生《お》い繁《しげ》った真に芝居の難所めいた古寺のある荒野に踏み入る筈だ。ここでは野火に襲われて無惨《むざん》な横死を遂げた旅人の話が何件ともなく云い伝えられているが、全くあの荒野で野火に囲まれたならば誰しも往生するのが当然であろう。秋から冬にかけては村々は云うまでもなく森の盗賊団でも火に関する掟が厳重に守られているのは道理だ。
さてこれらの不気味な道を通り越しても更に吾々は休む暇もなく、今度は爪先上りの赤土のとても滑り易《やす》い陰気な坂をよじのぼらなければならない。この坂は俗に貧乏坂と称ばれて近在の人々にこの上もなく忌み嫌《きら》われている。というのはこの坂にさしかかると懐中《ふところ》の金袋の重味でさえも荷になって投げ棄ててしまいたくなる程の困難な煩らわしい急坂だからである。その上このあたりには昼間でも時とすると狐狸《こり》の類《たぐ》いが出没すると云われ、その害を被《こうむ》った惨めな話が無数に流布されている。怖ろしい山径をたどった後にここに差しかかる頃には誰しも山の陰気に当てられて貧血症に襲われるところからかかる迷信的な挿話が伝っているのだろうが、実際私達にしろこの坂に達した時分になると余程《よほど》自分ではしっかりしているつもりでも神経が苛々《いらいら》として来て、藪蔭《やぶかげ》で小鳥が羽ばたいても思わず慄然として首を縮め、今時狐などに化されて堪《たま》るものかと力みながらも、一般の風習に従って慌てて眉毛を唾で濡《ぬら》さぬ者はなかった。
ここもかしこも私は今日はゼーロンの駿足に頼って一気に乗り超える覚悟で、兼《かね》て決心の手綱を引き締めて出発して来たのだが、こうそれからそれへ、とぼとぼと擂鉢のふちをたどりながら行手の難路に想《おも》いを及ぼすと夥しい危惧の念に打たれずには居られなかった。折も折、夜来の雨が今朝晴れて、あたりの風景は水々しいきらびやかさに満ち溢れ、さんらんたる陽《ひかり》は実《げ》にも豪華な翼を空一杯に伸べ拡げてうらうらとまどろんでいるが、それに引きかえ、不断《ただ》でさえ日の眼に当ることなしに不断にじめじめと陰険な渋面をつくって猜疑《さいぎ》の眼ばかりを据えているあの憎たらしい坂道は、どんなにか滑り易い面上に、意地悪な苦笑を湛《たた》えながら手ぐすね引いて気の毒な旅人を待ち構えていることだろう!――私は、この坂道と戦うための用意に自分のとゼーロンのと、一束にした草鞋《わらじ》と一歩一歩踏み昇る場合の足場を掘るためのスコップとを鞍の一端に結びつけて来たのであるが、今、それが私の眼の先で、ゼーロンの跛の脚どりにつれてぶらんぶらんと揺れているのを眺めると胸は鉛のようなもので一杯になってしまった。
私はギヤマン模様のように澄明な猪鼻村のパノラマを遠く脚下に横眼で見降しながら努めて呑気そうに馬追唄を歌って行った。村の家々から立ち昇る煙が、おしめども春のかぎりの今日の日の夕暮にさえなりにけるかな――と云いたげな古歌《うた》の風情《ふぜい》で陽炎《かげろう》と見境いもつかず棚引き渡っていた。夕暮までには未だ余程の間がある。こんなところで夕暮になったら大事だ――だが私は、霞《かす》むともなくうらうらと晴れ渡った長閑《のどか》な村の景色を眺めると思わず陶然として、声高らかにさような歌を節も緩やかに朗詠した。そして更に眼を凝らして眺めると村道を歩いて行く人達の、おおあれはどこの誰だ――ということまでがはっきりと解った。枯
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